
『プラータナー:憑依のポートレート』東京公演反響まとめ

ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也 『プラータナー:憑依のポートレート』(東京芸術劇場シアターイースト) pic.twitter.com/K1RZwgNiTr
2019-06-27 17:52:33


芸劇にてウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也『プラータナー:憑依のポートレート』日本初演。昨年8月にバンコクでの世界初演を二度観てるが、やはり途方もない野心作だと思った。日本人の演劇作家が、タイの小説家の半自伝的な作品を原作に、タイ俳優だけが出演して、これがやれるとは!
2019-06-27 22:58:37
『プラータナー』では技術スタッフが全員ずっと舞台上にいて、転換も客前でやるのだが、照明のポーンパン・アーラヤウィーラシットが別のひとに代わってて、あれ?と思ったんだけど、もしかしたら『フィーバールーム』の方についてるのかも? 彼女は二作品ともにかかわっているのだ。
2019-06-27 23:06:55
4時間半あるのだが、休憩を挟んで後半からの静かでスローモーな劇的高揚が凄い。ゆっくりと、だが確実に、刺さってくる。三度目なのに、ラストシーンではしたたかに打ちのめされてしまった。
2019-06-27 23:00:48
岡田台本も入ってる異様に充実したバンフ本と原作。自分のコメント、とても気に入ってます。 pic.twitter.com/n1Lmj1jew3
2019-06-27 23:12:00


トンチャイ・ウイニッチャクンの「地理的身体」についてはすばるの論考にも書いたが(といってももともと岡田君から聞いたんだけど)、『プラータナー』は作家ウティットヘーマムーンの個人史にタイ現代史が重ねられている、そしてそれらは舞台上の身体、からだたちの様態によって表現されている。
2019-06-27 23:52:11
あのタイの若い俳優のからだたちが、いや、スタッフも含めて、いわばタイの歴史的身体なのだ。あれほど後半、執拗に俳優たちが互いのからだを絡ませ合う、まさにコンタクトゴンゾ的にぶつけ合うのは、そのためだ。
2019-06-27 23:54:30
『プラータナー』は『現在地』に近い劇中劇の形式を取っており、特に前半はモノローグしてる俳優は客席に向かない。だが後半に入ると観客に対峙して喋る場面が次第に増えてゆく。『三月の5日間』ばり役の移動もあるが、ここ一番は固定する(特にナーム)。岡田利規はやれることを全部やっている。
2019-06-28 00:32:18
池袋で岡田利規+ウティット・へーマームーン「プラータナー 憑依のポートレート」観た。4時間越えの舞台だけど、たいへん面白かった! 岡田さんの演出が題材とぴたりと合っているし、物語もいい。ミラン・クンデラの「存在の耐えられない軽さ」を思い起こしました。原作読みます。
2019-06-27 23:21:49
プラータナー、全体を通して同性愛的な出来事や行為を直接に描写するのがおさえてられていて、最後に抑制の効いた同性愛描写がワンシーンだけある。そのシーンがとてもじーんときた。
2019-06-27 23:40:06
プラータナー憑依のポートレート初日観劇してきた🇹🇭 4時間という長い時間お疲れ様でした。 もっともっとタイって国と、タイ語も勉強し直そうと思った劇でした。 タイ語やってる身からすると、すっごく勉強になる劇だし、すっごく勉強になる空間でした。 頑張ろ!!!
2019-06-27 23:49:48
プラータナー見た!小説にかなり忠実、私的場面が減り、社会的場面の割合が多い。後半のダイナミックな身体がいい。7/2にお話を伺うのが楽しみ!『3月の五日間』と親和性を感じる作品です。→ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×福冨渉+上田洋子「舞台と小説の交感」 ptix.at/Vt2Tuf
2019-06-28 00:07:47
東京芸術劇場で、ウティット・ヘーマムーン×岡田利規×塚原悠也『プラータナー:憑依のポートレート』。4時間30分ある舞台の感想をTwitterに書き込むこと自体無理があるのだが、あえて言えばこれは「視姦の罪」を扱う物語だと思った。今もあなたはこのTweetをみることでわたしをファックしているのだ。
2019-06-28 00:23:03
わたしはわたしの言葉が、わたしの姿が、わたしの行為が、全世界に晒されることについてほとんど不感症なので大丈夫で、今日も臆面もなく喋り散らしていたのだけれど、当たり前のようにわたしがあなたにどのように届くかを完全に制御するのは不可能な社会であり、時代である。ラストは涙腺が崩壊した。
2019-06-28 00:26:38
『プラータナー:憑依のポートレート』を観劇。本当に難しい主題を見事に作品に昇華していた。舞台はむき出し、俳優も雑多な小道具も仕掛けも裏方も全部見せるのは、東南アジアのあの力溢れる街の混沌にも思えるが、舞台と客席の間には厳然たるビニールテープのラインが引かれている。
2019-06-28 00:37:55
俳優はナレーターにも配役にも観客にも変化し、彼らは第一幕では観客としての彼ら自身に向かってしか演技をしない。見る者と見られる者が役者の中で交代するが、そこでは見ない者と見られない者がすっぽり抜け落ちる。ここで東南アジアの現実を見ない者と観客が、同時に黙殺される者と観客とが重なる。
2019-06-28 00:37:56
憑依のポートレイトの名の通り、舞台には確固たる西洋的アイデンティティを持つ主体はいない。それでも肉体の性的な絡み合いと政治的な騒乱が写し絵のように重なり合い、その一部が芸術の名目で流出し、性的被害者が現れてしまう。そしてそれはもう現代のメディア社会では見慣れた風景である。
2019-06-28 00:37:56
これだけ足掻いてきたはずのタイの、アジアの若者の固有さは微塵もなく、そのため観客と舞台に引かれていた境界も溶解し始める。俳優は客席に観客に話し始めることになるが、それももう見慣れた風景であり、知らないうちに俳優たちはすでに観客の側に移動している。
2019-06-28 00:37:57
西洋美術とは異なり、オリエント趣味にも還元されないはずの東南アジアの個性はそれ自体憑依するポートレイトとなる。同じ轍が反復される。その意味では結局、性欲と政治がつながるフロイト主義、男根中心主義が維持されたままなのだなと少し悲しくなった。女性の性は確かに何も見えてこなかった。
2019-06-28 00:37:58
『プラータナー』続き、岡田利規さんのこれまで見た作品で一番好きな作品かもしれない。俳優の身体が軋み、ぶつかり、もつれ合う音や息遣いに、繊細で持続的な想像力を届かせなければならない。そうして初めて彼ら彼女たちの魂の祈りのような叫びを聞くことになる。演劇ってそういうことだよなと実感。
2019-06-28 23:34:10