結城秀康の病歴と動向について。

徳川家康の次男秀康の病は梅毒とされているが、実際の症状はどうであったか、また、大名になってから死没するまでの動きも追ってみた。
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アリノリ @a_ri_no_ri

徳川家康の次男秀康は、慶長12年に病で没した。その病は『当代記』に「唐瘡」と記されているため、「梅毒」と解釈される場合が多い。「唐瘡」は「痘瘡=天然痘」の可能性もあるが、秀康の患(わずら)いは3〜4年と長い。天然痘にしては長すぎるので、「梅毒」とされるのだ。

2019-07-06 16:10:38
アリノリ @a_ri_no_ri

更に『当代記』は「其上虚」と記す。「虚」の意味は分からない。病名なのか、精神状態なのか、不明である。『当代記』は他にも家康の娘や大名の死因についても記すが、秀康の場合、書状や日記などの一次史料には「腫物」などの「症状」くらいしか書かれないため、正確な死因は分かりづらい。

2019-07-06 16:10:49
アリノリ @a_ri_no_ri

「怪我」などの外傷ならば話は別だが、「病気」となると、現代でも詳しい検査が必要となる。当時の診察はせいぜい脈を取る、舌を診る程度であり、病の診断も正確ではない。『当代記』の記述も「史実」と断定することはできない。梅毒だったかもしれない、という可能性の話なのだ。

2019-07-06 16:11:00
アリノリ @a_ri_no_ri

では、実際の秀康の病はどのようなものであったのか、秀康の動向・病歴と合わせて書き出してみる。 秀康の病を記す最初は、当人の書状である。天正20年(=文禄元年,1592)年カ?と年次が確定されてないが、松平家信宛の正月20日の書状で秀康は自分の病について記している。

2019-07-06 16:11:14
アリノリ @a_ri_no_ri

松平家信(いえのぶ)は家康のいとこである松平家忠(いえただ)の息子で、秀康の親戚である。秀康は他の史料でも家忠との交流が確認できる。家信から年賀の書状をもらったらしく、秀康は返事を出した。その中に「…随而自去年之煩、散々式候得共、察物にて入唐之御供令申越候」とある。

2019-07-06 16:11:33
アリノリ @a_ri_no_ri

訳は「…去年から病を患っていて、とてもひどかったのですが、書状で唐に攻め入る共をせよとの命令がきましたので、」となるだろうか。天正20年は既に秀康が結城家に入った後になる。この唐入りの命令は、秀吉からのもので九州から東北までほぼ全国の大名が召集されている。

2019-07-06 16:11:48
アリノリ @a_ri_no_ri

家康が結城家入りを了承した書状の日付が7月29日付。よって、秀康の養子入りはそれ以降となる。秀康は天正18年(1590年)の7月29日以降に結城家に養子に入り、養父結城晴朝の姪鶴姫と結婚したと思われる。『幕府祚胤伝』や『秀康年譜』では8月6日に結城家入り、嫁取り。

2019-07-06 16:12:04
アリノリ @a_ri_no_ri

実質、天正18年8月から秀康は「結城秀康」となり、本来なら、結城統治に乗り出すところだが、同年中に秀吉によって軍事動員される。天正18〜19年の葛西大崎一揆鎮圧のため、実父家康の配下として出陣を命じられたのだ。一揆は天正19年中に鎮圧されたが、秀康の活躍や結城帰還は不明。

2019-07-06 16:12:19
アリノリ @a_ri_no_ri

天正18年11月の秀吉→榊原康政の朱印状で動員が知らされ、天正19年1月5日に家康は蒲生氏郷援助のために岩付(埼玉県)に着く。一揆は伊達政宗らにより鎮圧され、家康は13日には江戸に戻っている。秀康の出陣もこの前後に納まるだろう。『秀康年譜』では11月下旬に出陣、年内に帰国。

2019-07-06 16:12:47
アリノリ @a_ri_no_ri

この葛西大崎一揆でも、秀康は出陣しただけで戦ってはいない。 『幕府祚胤伝』では天正19年2月に初めての子(女子)が誕生。1月中に出陣が終わっているから、秀康は女子の誕生には間に合っただろう。ただ、結婚から計算すると8ヶ月で生まれており、かなりの早産だ。

2019-07-06 16:13:05
アリノリ @a_ri_no_ri

家康は同年7月19日に九戸政実の乱鎮圧のために再び出陣するが、秀康は動員されていないようだ。領国経営のためか?それとも、自分で書状に書いた「去年から患っていた」病のせいか?結城を任されて早々に葛西大崎一揆に動員されているから、九戸政実の乱への不参加は病のためだろう。

2019-07-06 16:13:20
アリノリ @a_ri_no_ri

天正20年(=文禄元年,1592年)2月の知行宛行状が幾つか確認できるので、この頃には病も良くなったようだ。そして、病が癒えたばかりであるが、秀康は先の書状にあるとおり、秀吉の「唐入=朝鮮出兵」に動員され、再び出陣する。

2019-07-06 16:13:36
アリノリ @a_ri_no_ri

家康は天正20年2月2日以前に江戸を出立。(ここまでの家康の動向は『家忠日記』より)知行宛行状の日付からして、秀康は2月9日以降に結城を出たようだ。『言経(ときつね)卿記』によれば、家康は3月17日に京都を出て、肥前(佐賀県)名護屋に向かう。秀康も同行したらしい。

2019-07-06 16:13:50
アリノリ @a_ri_no_ri

文禄2年(1593年)8月に秀頼が誕生する。秀吉は名護屋から大坂に戻り、家康も8月29日に大坂に着いて9月には京都にいる。秀康の京都着は不明だが、文禄3年6月には伏見にいるのが確認できる。知行宛行状の日付から、秀康が結城に戻るのは文禄5年(1596年)正月以前となる。

2019-07-06 16:14:04
アリノリ @a_ri_no_ri

文禄3年11月9日に最初の子(女子)が死去。伏見にいる秀康は死去に立ち会えていない。結城家の鶴姫との間にはこの女子しか生まれず、秀康は側室との間に子を多くもうけた。越前に移ってからの話となるが、『秀康年譜』には「室家睦シカラスシテ別居」とあり、鶴姫との仲は悪かったようだ。

2019-07-06 16:14:20
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康死後に鶴姫は貴族の烏丸(からすま)光広と再婚する。光広との間には男子が一人で生まれることから、彼女はまだ十分に子を産める体であったのが分かる。それで秀康との間に没した女子のみなのだから、秀康は意図的に彼女と子作りしなかったのだろう。仲が悪いという話の傍証となる。

2019-07-06 16:14:40
アリノリ @a_ri_no_ri

正室の鶴姫は養父結城晴朝の妹の娘である。秀康は結城家に養子に入っていながら、結城の血を積極的に残そうとはしなかったようだ。また、秀康没後に越前松平家を出て烏丸光広と再婚していることから、鶴姫は秀康の「奥」を仕切る不可欠な人材にもなっていなかったらしい。

2019-07-06 16:15:05
アリノリ @a_ri_no_ri

領国統治のため、秀康は文禄5年は半年ほど結城にいたようだ。同年中6月には上洛して伏見にいるのが、弟秀忠の書状から分かる。秀忠は兄に「明日於伏見懸御目可申承候=明日伏見でお会いしたいとのこと、分かりました」と伝えている。秀忠⇄秀康の書状は多く残り、これも先に秀康が手紙を出している。

2019-07-06 16:15:30
アリノリ @a_ri_no_ri

書状の日付は6月5日。『言経卿記』によれば、秀忠は6月6日に伏見着。約束通り、秀康と会っただろう。都合が合えば、父の家康も交えて親子3人で集ったと思われる。この親子は前年の文禄4年10月にも伏見の家康屋敷で会い、伊勢物語の講釈を一緒に受けて、夕食を共にしている。

2019-07-06 16:15:49
アリノリ @a_ri_no_ri

秀康と秀忠は、将軍になれなかった兄、兄を差し置いて将軍となった弟、という見方をされる。秀康の悲劇を強調する場合に使われるが、この兄弟は書状のように機会があれば積極的に会っており、仲は良いと言える。秀康は結城家の当主だが、秀吉・家康は彼を徳川の一員として扱い、秀康もそう動いている。

2019-07-06 16:16:24
アリノリ @a_ri_no_ri

慶長3年(1598年)2月に安堵状、知行宛行状が出ているので、それまでに秀康は結城に戻ったようだ。ここまで見てきたように、秀康は出陣or伏見滞在が多く、結城(茨城県)にはさほどいない。1590〜98年の間に1〜2年いたかどうかだ。これは秀康だけでなく、家康も同じなので特殊な例ではない。

2019-07-06 16:17:27
アリノリ @a_ri_no_ri

家康も伏見にいる期間の方が長く、江戸には短期間しか戻っていない。ただ、秀康や家康はマシな方で、伊達政宗は朝鮮出兵から慶長5年の関ヶ原の戦いまで、ほとんど領国に「戻れていない」のだ。一度だけ、許しをもらって戻ったのだが、秀次事件が起きて直ぐに呼び戻されている。

2019-07-06 16:17:43
アリノリ @a_ri_no_ri

秀吉時代の大名は領国⇄伏見・京都・大坂を何度も行ったり来たりするか、ほぼ上方にいるかのどちらかなので、家康は領地の江戸にいるだろうと、安易に決めつけると間違えるので注意が必要だ。秀康も慶長3年8月までには上洛して、また伏見にいる。

2019-07-06 16:19:32
アリノリ @a_ri_no_ri

その慶長3年8月18日、秀吉が病没し、家康は即座に秀忠を江戸に戻す。本能寺の変では信長と後継者の信忠が死亡したことで、織田家は力を失った。家のために後継者の安全を確保するのは重要だ。秀康は徳川ではなく結城を継いでいて、官位も秀忠より低い。命を狙われる危険性はほぼない。

2019-07-06 16:19:47
アリノリ @a_ri_no_ri

伏見に残った秀康は秀忠に情報を送りながら、父家康の護衛にあたる。慶長4年9月に家康が大坂に移ると、秀康は伏見を任されたらしい。慶長5年(1600年)6月に家康は上杉景勝攻撃のために江戸に向かう。秀康も秀忠と結城家の家臣に手紙でそれを伝え、伏見を鳥居元忠に任せて出立したようだ。

2019-07-06 16:20:03