結城秀康の病歴と動向について。

徳川家康の次男秀康の病は梅毒とされているが、実際の症状はどうであったか、また、大名になってから死没するまでの動きも追ってみた。
戦国時代 結城秀康 日本史 徳川秀忠 徳川家康
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アリノリ @a_ri_no_ri
徳川家康の次男秀康は、慶長12年に病で没した。その病は『当代記』に「唐瘡」と記されているため、「梅毒」と解釈される場合が多い。「唐瘡」は「痘瘡=天然痘」の可能性もあるが、秀康の患(わずら)いは3〜4年と長い。天然痘にしては長すぎるので、「梅毒」とされるのだ。
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更に『当代記』は「其上虚」と記す。「虚」の意味は分からない。病名なのか、精神状態なのか、不明である。『当代記』は他にも家康の娘や大名の死因についても記すが、秀康の場合、書状や日記などの一次史料には「腫物」などの「症状」くらいしか書かれないため、正確な死因は分かりづらい。
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「怪我」などの外傷ならば話は別だが、「病気」となると、現代でも詳しい検査が必要となる。当時の診察はせいぜい脈を取る、舌を診る程度であり、病の診断も正確ではない。『当代記』の記述も「史実」と断定することはできない。梅毒だったかもしれない、という可能性の話なのだ。
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では、実際の秀康の病はどのようなものであったのか、秀康の動向・病歴と合わせて書き出してみる。 秀康の病を記す最初は、当人の書状である。天正20年(=文禄元年,1592)年カ?と年次が確定されてないが、松平家信宛の正月20日の書状で秀康は自分の病について記している。
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松平家信(いえのぶ)は家康のいとこである松平家忠(いえただ)の息子で、秀康の親戚である。秀康は他の史料でも家忠との交流が確認できる。家信から年賀の書状をもらったらしく、秀康は返事を出した。その中に「…随而自去年之煩、散々式候得共、察物にて入唐之御供令申越候」とある。
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訳は「…去年から病を患っていて、とてもひどかったのですが、書状で唐に攻め入る共をせよとの命令がきましたので、」となるだろうか。天正20年は既に秀康が結城家に入った後になる。この唐入りの命令は、秀吉からのもので九州から東北までほぼ全国の大名が召集されている。
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家康が結城家入りを了承した書状の日付が7月29日付。よって、秀康の養子入りはそれ以降となる。秀康は天正18年(1590年)の7月29日以降に結城家に養子に入り、養父結城晴朝の姪鶴姫と結婚したと思われる。『幕府祚胤伝』や『秀康年譜』では8月6日に結城家入り、嫁取り。
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実質、天正18年8月から秀康は「結城秀康」となり、本来なら、結城統治に乗り出すところだが、同年中に秀吉によって軍事動員される。天正18〜19年の葛西大崎一揆鎮圧のため、実父家康の配下として出陣を命じられたのだ。一揆は天正19年中に鎮圧されたが、秀康の活躍や結城帰還は不明。
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天正18年11月の秀吉→榊原康政の朱印状で動員が知らされ、天正19年1月5日に家康は蒲生氏郷援助のために岩付(埼玉県)に着く。一揆は伊達政宗らにより鎮圧され、家康は13日には江戸に戻っている。秀康の出陣もこの前後に納まるだろう。『秀康年譜』では11月下旬に出陣、年内に帰国。
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この葛西大崎一揆でも、秀康は出陣しただけで戦ってはいない。 『幕府祚胤伝』では天正19年2月に初めての子(女子)が誕生。1月中に出陣が終わっているから、秀康は女子の誕生には間に合っただろう。ただ、結婚から計算すると8ヶ月で生まれており、かなりの早産だ。
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家康は同年7月19日に九戸政実の乱鎮圧のために再び出陣するが、秀康は動員されていないようだ。領国経営のためか?それとも、自分で書状に書いた「去年から患っていた」病のせいか?結城を任されて早々に葛西大崎一揆に動員されているから、九戸政実の乱への不参加は病のためだろう。
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天正20年(=文禄元年,1592年)2月の知行宛行状が幾つか確認できるので、この頃には病も良くなったようだ。そして、病が癒えたばかりであるが、秀康は先の書状にあるとおり、秀吉の「唐入=朝鮮出兵」に動員され、再び出陣する。
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家康は天正20年2月2日以前に江戸を出立。(ここまでの家康の動向は『家忠日記』より)知行宛行状の日付からして、秀康は2月9日以降に結城を出たようだ。『言経(ときつね)卿記』によれば、家康は3月17日に京都を出て、肥前(佐賀県)名護屋に向かう。秀康も同行したらしい。
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文禄2年(1593年)8月に秀頼が誕生する。秀吉は名護屋から大坂に戻り、家康も8月29日に大坂に着いて9月には京都にいる。秀康の京都着は不明だが、文禄3年6月には伏見にいるのが確認できる。知行宛行状の日付から、秀康が結城に戻るのは文禄5年(1596年)正月以前となる。
アリノリ @a_ri_no_ri
文禄3年11月9日に最初の子(女子)が死去。伏見にいる秀康は死去に立ち会えていない。結城家の鶴姫との間にはこの女子しか生まれず、秀康は側室との間に子を多くもうけた。越前に移ってからの話となるが、『秀康年譜』には「室家睦シカラスシテ別居」とあり、鶴姫との仲は悪かったようだ。
アリノリ @a_ri_no_ri
秀康死後に鶴姫は貴族の烏丸(からすま)光広と再婚する。光広との間には男子が一人で生まれることから、彼女はまだ十分に子を産める体であったのが分かる。それで秀康との間に没した女子のみなのだから、秀康は意図的に彼女と子作りしなかったのだろう。仲が悪いという話の傍証となる。
アリノリ @a_ri_no_ri
正室の鶴姫は養父結城晴朝の妹の娘である。秀康は結城家に養子に入っていながら、結城の血を積極的に残そうとはしなかったようだ。また、秀康没後に越前松平家を出て烏丸光広と再婚していることから、鶴姫は秀康の「奥」を仕切る不可欠な人材にもなっていなかったらしい。
アリノリ @a_ri_no_ri
領国統治のため、秀康は文禄5年は半年ほど結城にいたようだ。同年中6月には上洛して伏見にいるのが、弟秀忠の書状から分かる。秀忠は兄に「明日於伏見懸御目可申承候=明日伏見でお会いしたいとのこと、分かりました」と伝えている。秀忠⇄秀康の書状は多く残り、これも先に秀康が手紙を出している。
アリノリ @a_ri_no_ri
書状の日付は6月5日。『言経卿記』によれば、秀忠は6月6日に伏見着。約束通り、秀康と会っただろう。都合が合えば、父の家康も交えて親子3人で集ったと思われる。この親子は前年の文禄4年10月にも伏見の家康屋敷で会い、伊勢物語の講釈を一緒に受けて、夕食を共にしている。
アリノリ @a_ri_no_ri
秀康と秀忠は、将軍になれなかった兄、兄を差し置いて将軍となった弟、という見方をされる。秀康の悲劇を強調する場合に使われるが、この兄弟は書状のように機会があれば積極的に会っており、仲は良いと言える。秀康は結城家の当主だが、秀吉・家康は彼を徳川の一員として扱い、秀康もそう動いている。
アリノリ @a_ri_no_ri
慶長3年(1598年)2月に安堵状、知行宛行状が出ているので、それまでに秀康は結城に戻ったようだ。ここまで見てきたように、秀康は出陣or伏見滞在が多く、結城(茨城県)にはさほどいない。1590〜98年の間に1〜2年いたかどうかだ。これは秀康だけでなく、家康も同じなので特殊な例ではない。
アリノリ @a_ri_no_ri
家康も伏見にいる期間の方が長く、江戸には短期間しか戻っていない。ただ、秀康や家康はマシな方で、伊達政宗は朝鮮出兵から慶長5年の関ヶ原の戦いまで、ほとんど領国に「戻れていない」のだ。一度だけ、許しをもらって戻ったのだが、秀次事件が起きて直ぐに呼び戻されている。
アリノリ @a_ri_no_ri
秀吉時代の大名は領国⇄伏見・京都・大坂を何度も行ったり来たりするか、ほぼ上方にいるかのどちらかなので、家康は領地の江戸にいるだろうと、安易に決めつけると間違えるので注意が必要だ。秀康も慶長3年8月までには上洛して、また伏見にいる。
アリノリ @a_ri_no_ri
その慶長3年8月18日、秀吉が病没し、家康は即座に秀忠を江戸に戻す。本能寺の変では信長と後継者の信忠が死亡したことで、織田家は力を失った。家のために後継者の安全を確保するのは重要だ。秀康は徳川ではなく結城を継いでいて、官位も秀忠より低い。命を狙われる危険性はほぼない。
アリノリ @a_ri_no_ri
伏見に残った秀康は秀忠に情報を送りながら、父家康の護衛にあたる。慶長4年9月に家康が大坂に移ると、秀康は伏見を任されたらしい。慶長5年(1600年)6月に家康は上杉景勝攻撃のために江戸に向かう。秀康も秀忠と結城家の家臣に手紙でそれを伝え、伏見を鳥居元忠に任せて出立したようだ。
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コメント

さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月6日
国立感染症研究所の梅毒の項を読む限り、感染第二期には眼疾患の症状をきたす場合があり、無治療では十年前後で艦船第四期症状として脳痴呆性麻痺の前段階として脊髄癆(手足に電気が流れるような痛みが走る)の症状で花押が自分で書けない症状も梅毒の症状の一つとして合致します。岩淵夜話別集には梅毒第三期の鼻が落ちる描写もある。
さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月6日
秀康は母親の出自が不明である。のちの将軍職についた者たちもほぼほぼ側室の子だが、母親が町の商家の出であるなど出自は明らかであるにもかかわらず秀康だけが母親の出自が不明だ。母親の出自が明らかでない秀康以降、家康は側室の条件として実質経産婦しか取っていない。
さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月6日
当代記にある「其上虚」は脳梅毒による痴呆性麻痺のことを指します。梅毒感染第四期では脊髄癆とともに現れる症状です。徳川家は身内であっても、家光の弟忠長には切腹を命じるなど厳しい処置を取っていますが、秀康には切腹を命じなかったのはそもそも「自分で切腹ができる状態ではなかった」だけなのかもしれません。
アリノリ @a_ri_no_ri 2019年7月6日
M__Sadohara 岩渕夜話別集などの逸話は、梅毒ありきで描写している可能性が高いのであまり参考にはできませんが、感染第2期の眼疾病は、「治る」ものなのでしょうか?また、秀康の母は出自不明ではなく「永見氏」出身とされています。秀康の家来に永見氏が複数確認でき、それなりの信憑性はありそうです。さらに、家康の側室は経産婦のみではありません。
アリノリ @a_ri_no_ri 2019年7月6日
M__Sadohara 秀康に切腹させる??というのは、いったい、何の話ですか?また、このまとめは「死因:梅毒」を全否定するものではなく、可能性としてはあるが断定はできないと書いているだけです。
さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月6日
秀康は武勲があって家康の懐刀的な扱いと取る人もいますが、当時の梅毒の感染源が女芸者遊びぐらいしかないこと、家康が人一倍健康に気遣った人であること、己の立場を過信ししばしば強硬な手段に出る秀康の行状を家康自身があまりよく思わなかったこともあり、秀康の待遇は実際のところ今でいう「社長室預かり」なのではないかと思います。
さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月6日
a_ri_no_ri 梅毒による眼疾患は梅毒感染第二期症状ですので、寛解はせずとも症状としては収まります。秀康の母親の出自については、今のところ史実として確定していません。wikiでは確定したことのように書かれていますが。
さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月6日
天然痘であれば、通常2,3週間で治癒するがその間に花押が掛けないような神経痛症状などでない。それ以前に40度前後の高熱が出るので、そもそも文面を考えること自体ができない。死去の10年以上前に眼病を発症しているが、戦国~江戸時代に多い結膜炎やトラコーマ由来の眼病であれば後天的に失明することがほとんどで、失明したとの記載がない秀康には合致しない。医学的根拠を基にして考えれば、秀康の死因は梅毒が適当と考えられる
文里 @wenly_m 2019年7月7日
これはまとめて欲しかった
アリノリ @a_ri_no_ri 2019年7月7日
M__Sadohara よく内容を読んでからコメントしてください。梅毒ではないと断定していないように、天然痘だとも断言していません。
さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月7日
秀康は兄信康と15才ほど年が離れており、母親の出自が明らかでなく(どう弁護しても正室の子ではない)、家康の目が直接届かない城外で生まれていることなどから、世間から家康秀康の親子関係を疑う声は当然あっただろうし、家康自身も「実施ではないかもしれない」という疑いを払しょくしたという逸話もない。世間の噂を払しょくすべく、家康が手元に置き重用するほどその関係は疑われただろう。天下人秀吉の死因が腎虚(房事過多)だという噂が普通に飛ぶのが世間なんであるからして
さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月7日
天然痘が死因でないのだとしたら、まとめ主の考える秀康の死因は何なのよ?そこを描かないのならそもそもこんなまとめを作るなよ、としか言えないんですが。コメントデザインでもしますか?
さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月7日
まとめ主に医学的知識がないのはともかく、家康と敵対関係かもしれない貴族の資料を一次資料として病状などよりも重く扱うのは、違うんじゃないの?歴史的事実を知りたいのなら、現代人が小説を読むような感覚で史料にあたったところで、事の本質にはたどり着かないでしょう
さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月7日
別に天然痘でなくても顔にあばたが残る病気などいくらでもあるし、疫学的見地からいれば西洋東洋を問わず人口の2~3割はあばた顔であったといわれる当時において、あばたを隠すことが目的で膏薬を張ること自体が家康の激怒を買うはず。岩淵夜話別集には家康が秀康が梅毒であったと知っていた記述もないし、家康が激怒した理由も「あばたを隠すようなみっともない真似はするな」が理由だと書かれている
さどはらめぐる @M__Sadohara 2019年7月7日
私が先に書いた「秀康の死因は梅毒が適当と考えられる」って断定なの?
アリノリ @a_ri_no_ri 2019年7月7日
M__Sadohara 日記を残してる山科言経や舟橋秀賢の立場も知らないで、コメントしているのですか…。死因を特定するためではなく、病歴と動向を記すと初めに書いてあります。また、こちらは断定していないと書いてあるだけで、そちらのコメントを断定していると決めつけてはいません。
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