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アンリ・ベルクソン『物質と記憶』読書メモ集

アンリ・ベルクソン『物質と記憶』(杉山直樹訳、講談社学術文庫、2019)の読書メモをまとめました。Henri Bergson, Matiere et memoire, 1896.
哲学 イマージュ 物質 記憶 心脳問題 身体
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荒木優太 @arishima_takeo
われわれわれわれ、うるせー!! pic.twitter.com/igE5B47Otj
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荒木優太 @arishima_takeo
要するに、事物についてのわれわれの表象は、事物がわれわれの自由に対しつつ自分の姿を反映させることから生じるのだ。byベルクソン『物質と記憶』
荒木優太 @arishima_takeo
「われわれの意識的知覚のこうした必然的な貧しさのうちには、何か積極的なもの、すでに精神を告知する何かがある。それは、語源そのものの意味での「分別」である」(ベルクソン『物質と記憶』)。この何かが引かれてあることの積極的な意味というのが、もしかしたらこの本を読む鍵なのかもしれない。
荒木優太 @arishima_takeo
「だから、問うべきはただ一つ、数限りない他のイマージュは私の知覚から排除されているのに、なぜこのイマージュは選ばれて私の知覚の一部になっているのか、そしてそれはいかにしてか、ということだけである」(ベルクソン『物質と記憶』)。役立つため・行為のためってことかな?
荒木優太 @arishima_takeo
純粋持続と純粋知覚/純粋記憶の「純粋」の用法は同じといっていいのだろうか?
荒木優太 @arishima_takeo
「視覚にしても触覚にしても、その印象を直ちにある場所に位置づけることはできない。一連の照合と帰納が必要であり、それでようやく、われわれはさまざまな印象を秩序立てて並べられるようになる」(ベルクソン『物質と記憶』)。イルカみてーな話だな。
荒木優太 @arishima_takeo
「あらゆる物体のあらゆる点からのあらゆる影響を知覚するなどというのは、物質的対象の状態に落ちることだ。意識的知覚は選択を意味するのであり、そもそも意識とは何よりもまず、この実践的な分別のことなのである」(ベルクソン『物質と記憶』)。前半で言われてる知覚が純粋知覚って理解でOK?
荒木優太 @arishima_takeo
「苦痛とは、いずれも努力、それも無力な努力のことであるはずだ。すべての苦痛は一部分だけの努力であり、努力のこうした孤立そのものがその無力さの原因である」(ベルクソン『物質と記憶』)。孤立しない努力は、連帯する努力は苦痛にならないのか。含蓄に富む。
荒木優太 @arishima_takeo
「情感というのは、われわれが自分の身体内から外的物体のイマージュに混入させているものである。情感は、イマージュの純粋性を再発見したいのであれば、真っ先に知覚から取り去るべきものだ」(ベルクソン『物質と記憶』)。情感にはイマージュが混じってて知覚には情感が混じっている。
荒木優太 @arishima_takeo
@occasion1987 ああ、逆なわけですか。選択されてるのに純粋だというのがこんがらがりますね。こちらもありがとうございます。
荒木優太 @arishima_takeo
純粋知覚は記憶要素が入ってないから純粋、と覚えればいいのか。
荒木優太 @arishima_takeo
過去のイマージュとして呼び起こすために必要なのは、現在の行為から自分を引き離せること、無用なものにも価値を与えられること、夢見るのを欲することである。この種の努力ができるのは、おそらく人間だけだ。byベルクソン『物質と記憶』
荒木優太 @arishima_takeo
例えばある学課を習得しようと練習しているとき、いくつもの運動で組み立て直そうとしている視覚的または聴覚的なイマージュは、すでにわれわれの精神のうちで、見えないながらも現に存在しているのではあるまいか。byベルクソン『物質と記憶』
荒木優太 @arishima_takeo
ベルクソンのいう記憶力には二つある。イマージュを描く記憶力と反復する記憶力。自発的記憶力と意志的記憶力。より根本的なのは前者。メモ。
荒木優太 @arishima_takeo
「新書よりも論文を読め172」を更新しました。今日取り上げたのは、 岡嶋隆佑「ベルクソン『物質と記憶』におけるイマージュ概念について」(『フランス哲学・思想研究』、2017)です。早くも挫けそうです…MM。youtube.com/watch?v=FwUe0N…
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荒木優太 @arishima_takeo
岡嶋隆佑「ベルクソン『物質と記憶』におけるイマージュ概念について」、『フランス哲学・思想研究』、2017。これはウェブで読めるよ。academia.edu/34465178/OKAJI…
荒木優太 @arishima_takeo
われわれの考えでは、知覚が模倣運動へと自動的に分解され終わったまさにその時に、ようやくわれわれの能動的な活動性へと呼び出しがかかる。その時には一つの下絵が与えられているわけで、われわれは遠近さまざまな記憶をそこに投射して、その細部と色彩を創り直すのである。byベルクソン『MM』
荒木優太 @arishima_takeo
「固有名詞は、あらゆる語の中でも、身体が素描しうる非個人的な行為からいちばん遠いところにあるものなので、言語機能の減弱によって真っ先に損なわれる語なのだ」(ベルクソン『物質と記憶』)。へぇー。
荒木優太 @arishima_takeo
純粋記憶は潜在的なものであり、自分を引き寄せてくれる知覚によってでなければ現勢的なものになれない。byベルクソン『物質と記憶』
荒木優太 @arishima_takeo
純粋知覚と純粋記憶の中間に記憶イマージュがあると考えていいのか?
荒木優太 @arishima_takeo
「これまでの心的生は、われわれにとっては外の世界以上に実在しているとすら言える。われわれは外の世界のほんの一部しか知覚してないのに、それとは反対に、自分のこれまでの経験については、その全体を利用するからである」(ベルクソン『物質と記憶』)。過去は消えない。おもろい。
荒木優太 @arishima_takeo
あなたの知覚は、どんなに瞬間的なものであっても、数えきれないほど多くの想起された要素でできているのであり、実際には、すべての知覚作用はすでにして記憶力なのである。事実上、われわれは過去しか知覚していない。byベルクソン『物質と記憶』
荒木優太 @arishima_takeo
われわれの記憶は、われわれの過去の生についての無数の可能な縮図において、限りなく何度も反復されている。それらの記憶は、記憶力が自分を引き絞った場合には、それだけありふれた姿をとり、自分を膨張させる場合には、いっそう個人的な姿をとる。byベルクソン『物質と記憶』
荒木優太 @arishima_takeo
膨張した過去のほうがずっと個人的。逆に、過去を現在の一点に閉じ込め利用可能な形態に整形と他人と共有できると同時に一般的なものに堕してしまう。
荒木優太 @arishima_takeo
われわれの想定したところでは、精神は行為の平面と夢の平面という二つの局限のあいだに含まれる中間段階を休むことなく賭けめぐっているのであった。byベルクソン『物質と記憶』
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