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tktaketomi
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竹富島の西塘(にしとう)は、世界遺産の園比屋武御嶽(そのひゃんおたけ)の石門を造った1500年代の人物で、竹富島に蔵元(行政庁)を置いて、八重山を統治したことで知られています。竹富島フイナオン(国仲御嶽)も西塘の建造。 http://togetter.com/li/107761
2011-05-13 03:58:04
西塘は竹富島ではニシトーオン(西塘御嶽)で神として祀られ、西塘大祭をはじめ、四月大願いなどの豊作祈願が行われています。そのニシトーオンの創建は、意外と新しく、琉球国末期の1846年と推定されます。なぜ、西塘の死後、300年近く経過してからニシトーオンが創建されたか話します。
2011-05-13 03:58:36
西塘には子供がなく子孫が絶えたので、西塘の血筋で亡くなったあと彼を祭る人はいませんでした。ただ、部落では、ときどきお祭りをしていたという言い伝えがあり、また今のニシトーオンは、西塘のお墓があったところを御嶽にしたものと伝えられています。
2011-05-13 03:59:52
1846年の話になりますが、竹富島では、珍しい害虫が発生して、島の農作物をはじめ、雑草にいたるまで喰い尽され、大凶作となってしまいました。そしてその年、大浜津良という老人が神がかりして、高下駄を履き、黒木の杖をついて、夜明けごろ各集落を徘徊するということがおきました。
2011-05-13 04:00:19
大浜津良は、「玻座間ユンチュ(与人)、大山ペーチン(親雲上)の両人よ、よく聞け。私は西塘様の使いである。両人は島民の苦しい生活を見ているか!島が枯れゆく姿を見ているか!害虫が発生した原因を知っているか!」。。。つづいて
2011-05-13 04:02:53
この大浜津良の叫びを聞き、玻座間与人と大山親雲上は島民を集めて協議した結果、毎年西塘祭を挙行することにしました。その後、西塘様のご加護により、農作物は稔り、住民の生活は安定し、幸福を招くことになったといいます。
2011-05-13 04:04:06
つまり、1846年の神がかり以前には「四月大願い」はニシトーオンでは行われていなかったと思われます。言い換えるならば、1846年の神がかりの際に、お墓を御嶽に改修して、西塘大祭が行われ、それ以降ニシトーオン(西塘御嶽)で、四月大願いも行われるようになったのではと考えられます。
2011-05-13 04:04:29
ちなみに、玻座間ユンチュ(与人)は石垣島から赴任してきた八重山士族で、竹富島の村長格の統治者であり、大山ペーチンはインノタ集落の大山祐達氏のご先祖で、当時の竹富島の豪農です。なお、大浜津良の家は、現在民宿を行っているアイノタ集落の大浜荘です。
2011-05-13 04:04:50