7/21 桐野作人先生「戦国島津氏と京都」

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日光81 @nikko81_fsi

桐野作人先生の戦国島津氏講演資料を眺める。義弘居城と戦いや家族の話を聞いて、如何に知らないかを実感。誕生した伊作城と終焉の加治木館くらいじゃないか。飫肥城に義弘入ってたのも知らず。京都市伏見区桃山町島津と伏見区島津町はちょっと行きたくなった。戦いは泗川と関ヶ原しか知らないレベル。

2019-07-24 22:07:53
日光81 @nikko81_fsi

義弘一騎打ちしてたんだ…三國志かよとか思う島津初心者。義久娘亀寿と義弘息子久保、後に忠恒に嫁いでるあたり真田信綱娘清音院殿と昌幸嫡男信幸まんまやとか。忠恒はやはり家康からの一字拝領とか。やはり「家」を貰うのは「康」よりも格上なんだろうな。義弘に殉死した十三名の名前知りたい。

2019-07-24 22:13:22
日光81 @nikko81_fsi

京を意識する島津家てとこに、すぐ武田とおんなじや!とかすぐ武田的な何かが頭を擡げる。義久と義弘の「義」もちろん足利将軍家から。偏諱のやはり意味を深く押さえるのは面白い。義久は足利将軍家から認められる他の島津分家からの違いという意味。義輝からだが輝久ではない点に注目したい。

2019-07-24 22:19:56
日光81 @nikko81_fsi

しかし宗家格を争ったライバル薩州家も島津義虎が「義」を貰ってるとか。貰った時期もあるだろうが並ばれてる…しかもこの島津薩摩守義虎しばしば上洛し、蹴鞠興行を主宰しうる人脈と財力。錚々たる面々の中、いるかな…と思ったらやはり居ましたよこの人。武田陸奥守入道。島津と武田のツナガリ…

2019-07-24 22:25:55
日光81 @nikko81_fsi

対して義弘は鞆の浦に亡命していた時期の足利義昭から「義」を拝領しているそうで、対大友を意識し義昭を擁する毛利との親しさ、織田との対決姿勢が読み取れる、か。この時、ちょうどわが武田は勝頼公が甲芸同盟に漕ぎ着けるころじゃん?やだー毛利と足利義昭を介して武田と島津同盟関係じゃーん←

2019-07-24 22:32:14
日光81 @nikko81_fsi

永禄六年諸役人附。光源院殿御代當代参集、つまり足利義輝から見た家臣団の一覧。有名戦国武将に並んで島津宗家奥州家として島津陸奥守貴久、同修理大夫義久。少し後塵を拝するが島津薩摩守義俊(義虎)。薩州家もラインナップされてるのがすごいね。

2019-07-24 22:42:13
日光81 @nikko81_fsi

明智光秀関連だったかな?で知っていた島津中務大輔家久の状況日記は楽しすぎた。物見遊山すぎ、活動的すぎでいろんな名所を記録してるのがいい。島津家久なりきりTwitterアカウントでぜひツイート化すると面白そう(笑)教養も高そうだなって。

2019-07-24 22:46:25
日光81 @nikko81_fsi

旧記雑録の島津貴久修理大夫任官、義久への一字拝領、義久の修理大夫任官と貴久の陸奥守転任。こういうの武田にもあったんだろうな… 天文○○年○月○日 宣旨 源晴信 宜任左京大夫 とか 天文○○年○月○日 宣旨 左京大夫源信虎 宜任陸奥守 とかね。あっ、また武田が頭に…

2019-07-24 22:54:20
日光81 @nikko81_fsi

島津家文書、織田信長書状。天正八年、本願寺を下した信長が島津に大友との和睦を求め、毛利攻めの協力要請。島津義弘の「義」の字の経緯と併せて考えると味わい深い。

2019-07-24 22:57:50
日光81 @nikko81_fsi

また定期的に島津成分も摂取していきたい。特に京都編ということで足利幕府や公家と島津との関係が多いのがよく、極私的な関心事として悠々自適信虎ぱぱんとのツナガリを見つけてヒャッハーしたい気持ちでいっぱいになりました❖

2019-07-24 23:01:02