- nikko81_fsi
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遂に日光、楯無鎧に拝謁す。令和の御代には新たなる生き様を成就せんことを御誓い申し上げる。御旗楯無も御照覧あれ! pic.twitter.com/LXQeTyzpWt
2019-08-07 09:38:57楯無鎧と猿之助信玄公比較。明らかに現在の楯無鎧のデザインだよね。江戸時代にデザインかえたとき、どういう意図があったのだろう。流石に吹き返しは楯無鎧みたいにデカくはないけど。 pic.twitter.com/UmwspJ6Uyd
2019-08-07 10:43:57今度は京都高津の信玄公鎧との比較。絵韋部分の意匠は異なるものの、やはり江戸時代に修復された現在の楯無鎧の意匠を踏襲した感じだね。 pic.twitter.com/PqJS24QnbH
2019-08-07 10:57:51楯無鎧は武田家代々相伝…とは言うものの、記録で遡れるのは一蓮寺過去帳や旗本川窪武田氏に伝わる武田源氏一統系図より、武田信光が最古。相伝とある故それ以前から伝わっていたらしいことがわかる。鎌倉期は安芸守護武田宗家ではなく、また甲斐守護石和流武田氏でもなく、一条武田氏が相伝。
2019-08-07 11:29:16南北朝期宗家筋の安芸守護で甲斐守護も兼任した武田信武の頃に、一条氏から信武の元に移り、以降はまた安芸武田氏ではなく、信成の甲斐武田氏へ伝わり、信玄へ。宗家筋ではなく甲斐を継ぐ武田氏にどうやら伝わったらしい。
2019-08-07 11:32:41生島足島神社の起請文のうち、武田刑部少輔信廉、長坂昌国、浅利信種、両角昌守らの起請文に、起請文を破った際に神罰を被るであろう神々に並び、御旗楯無が出てきていて、神格化されて信仰の対象になっていたのがわかるとか。ちゃんと見てないなー…
2019-08-07 11:35:30神格化されたのはいつ頃か?少なくとも南北朝以降だろうか。甲斐を支配する正統性の根拠から徐々に惣領から嫡子に相伝される伝統の形成から信仰の対象に向かう過程は興味深い。
2019-08-07 11:42:28戦国時代。確かに鬼門の方角にある菅田天神に預け、必要なときに持ち出したとする記録もあるが、どうやら御旗とともに常に甲府躑躅ヶ崎に鎮座していた可能性もあるらしい。場所は御旗屋。御旗を祀ったであろう場所に楯無もあったかもと。風呂場の前の楯無。twitter.com/kaiseum_ypm/st…
2019-08-07 11:52:04【常設展資料紹介】 4月にオープンする「武田氏館跡歴史館」の愛称が「信玄ミュージアム」に決定したとのニュースがありましたね。ちょうど展示替えで、武田氏館の建物の配置を描いた「信玄公御屋形図」を出したところでした。信玄ミュージアムとあわせてぜひご覧ください。展示は4月22日(月曜)まで。 pic.twitter.com/wGklF9kNy5
2019-02-21 13:32:57武田家滅亡時に土に埋めたのを家康が掘り返して菅田天神に再び奉納…という話。実は県博の調査によると土に埋まった形跡は見当たらず、また近世に遡る史料は確認できず。しかも、土に埋めた伝説も江戸期は勝頼滅亡時ではなく、父が上杉禅秀の乱で敗死し自身は高野山に隠遁した武田信重だというのだ。
2019-08-07 11:57:12鎧そのものの話。草擦が四枚で出来ていて歩きにくいが、これは馬上で弓を射る戦闘を前提にしたもので馬上なら問題なし。弓を射る時に無防備になる左脇あたりが頑丈にできているそうな。当時とは意匠のほか、吹き返しの金具が外側の端だったり、鍬形台も眉庇の真中だったり改変あり。
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