検証・豊臣秀次〜その死の理由は?秀吉との関係は?その力量は?
文禄三年二月二十七日、秀吉が吉野(大和)で花見。晩年の醍醐の花見(京都)とは異なる。吉野花見は"実子"秀頼が生まれた翌年に甥で養子の秀次と共に出かける。有名な秀次事件はその翌年、謀反の嫌疑で切腹させられ、秀頼が晴れて嫡男となる。
2013-02-27 04:13:50豊臣秀次はいろいろ調べれば調べるほど、個人的な性格や教養は恐らく相当に評価できるのですが、大名・統治者としての才能がどうも壊滅的であり、秀次事件ほどの大事に至らないまでも、遅かれ早かれ、たとえ秀頼が生まれなくても、廃嫡はあったのではないかと思う
2019-02-12 20:53:24真田丸の豊臣秀次 脚本が秀次事件の史実の経緯とうまく噛み合って鳥肌モノ。 #大河ドラマで印象に残っている死 #真田丸 pic.twitter.com/klrbSnAg81
2019-05-29 22:24:24本日7/15は豊臣秀次の命日です。謎の事件が多い戦国時代でも、とくに不可解な事件として扱われてきた「関白秀次切腹事件」ですが、矢部健太郎氏の新説をベースに、秀次の心の動きを加えて書いた短編が『#上意に候』(『#家康謀殺』所収)です。今ならカドブンで無料で読めます。 kadobun.jp/readings/826/9…
2019-07-15 09:05:41秀吉による大和豊臣家取り潰しはどう捉えればいいのやら。秀吉も、たとえ豊臣家の藩屏たる家であっても無嗣改易という武家政権の原則に従ったと見るべきなのか、それとも死んだ豊臣秀保が豊臣秀次の実弟であり、秀次処分を控えて秀次に与同する可能性のある勢力を解体したと見るべきか。
2019-07-15 12:43:50本日7月15日は、豊臣秀次公の命日です。当店店先にある秀次公ゆかりの井戸、ゆかりの刀である厚藤四郎の模造刀で供養させていただきました。 pic.twitter.com/UKn17dgInR
2019-07-15 16:36:17本日は豊臣秀次公の命日。 7月15日 謀反を企てた疑いで秀次様が切腹した。 儂と秀次公は鷹狩りや詩歌の趣味友達だったため秀吉公に謀反関与を疑われ流罪にされかけました...。 SNSなど直接会わずネットで趣味の共有ができるお主らの時代が羨ましい....。
2019-07-15 18:49:14424年前の1595年8月2日は、豊臣秀次(秀吉の甥)の一族が三条河原で処刑された日ですね。 秀吉に秀頼が誕生したため、後継者の秀次との関係が悪化し、秀次は切腹。 その後、秀吉は秀次一族(最上義光の娘・駒姫ら)を処刑。 刑場は秀次らを祀った瑞泉寺となり、秀次の首を入れた石櫃も残されています。 pic.twitter.com/ZQTwrEXTBX
2019-08-02 14:12:31「秀次の子を大和国主に」という話だけれど、この時点で秀次の弟で秀長の養子となった秀保が大和&紀伊の国主として存在してる。 秀保から大和を取り上げて渡すつもりだったのだろうか。 新たな書状発見 豊臣秀吉 切腹直前の秀次の息子を「要職に」 | NHKニュース www3.nhk.or.jp/news/html/2019…
2019-08-19 06:32:13@vanchika1 @zibumitunari ある意味、これは秀吉の妥協案で、秀次家系は大和豊臣家を継げという話ですね。豊臣宗家は継がせないと。これに秀次がどう反応したかという事でしょうか。
2019-08-19 07:45:25www3.nhk.or.jp/news/html/2019… 大和国主で秀次寄りだった豊臣秀保の死が契機になって、障害がなくなった秀吉が一気に秀次排斥に乗り出した、とする見解もあったが、その後も大和国主に秀次の息子を入れる意向だったとするとこうした見方も変わってくる。やはり秀次事件は突発的な事件だったか。
2019-08-19 07:54:53書状の全体はまだわからないが、豊臣秀吉が豊臣秀保死後の大和国主に据えようとしていた人物はニュース映像中では豊臣秀次の「二歳」の息子となっている。ということは、恐らく秀次の嫡男ではない。秀次の嫡流を宗家にして秀吉・秀長体制の再現を狙ったのかもしれない。
2019-08-19 08:06:41@1059kanri この「息子」を秀次がどう受け取ったかがその後の展開につながってるのかもしれませんね。
2019-08-19 10:25:54秀次が切腹する3か月ほど前。 その息子を要職に就かせると発言していた豊臣秀吉の書状が新たに発見。 秀吉の右腕とも言える豊臣秀長の所領だった重要な土地・大和国を任せようとしていた、とのことで、秀次一族を重要視していたことが明らかに。 www3.nhk.or.jp/news/html/2019…
2019-08-19 10:32:36まあつまり、受け取り方次第では、秀吉による秀次への融和ではなく、この時期既に「秀次処分」が始まっていた、と見ることも出来るのではという話です。
2019-08-19 11:08:18@4568Ts これがどのような形で秀次に伝えられていたのか、もしくは伝えられていなかったのか、でもだいぶ話が違いますからね
2019-08-19 11:16:00@1059kanri 秀次は文禄4年の時点で息子が少なくとも4人いてしかもまだ嫡男が定まってない状態だったので、「息子を大和国主に」と秀吉から言われたら「格下げ」と受け取ったとしても不自然ではないですね。
2019-08-19 11:24:52@4568Ts 全文をきっちり読みこまないとはっきりとは言えませんが、これが毛利に宛てた書状であるあたり、やはり何かしらの政治的意図を感じちゃいますね
2019-08-19 11:30:491591 2月大和大納言秀長病没 1593 秀頼誕生 1595 4月大和中納言秀保急死 4月「秀次の子を大和国主に」手紙が毛利輝元へ 6月秀次謀反の疑い 7月秀次切腹 8月秀次長子処刑(6歳) 謎が謎を呼ぶ秀次事件w 大和豊臣を秀次の流れに継がせ、 豊臣宗家は秀頼ってことやったんかな? www3.nhk.or.jp/news/html/2019…
2019-08-19 11:46:30@1059kanri 大和郡山城主から羽柴宗家家督への道筋が成立してない以上、もし長男をそちらへ封ずるなら、同時に中納言以上への任官がない限りは「左遷」「家格引き下げ」と受け取られかねない処遇ですよね。
2019-08-19 11:55:00@nonomaru116 ですね。なので、この書状を以てこの時期の秀吉と秀次が融和的だったと単純に見ちゃうのはどうかなと思います。
2019-08-19 11:57:09大和大納言家は「要職」かも知れませんが関白家に比べれば「格下」であり、ましてや両家を秀次の血筋が独占するとなれば秀頼の立場が危うくなります。やはり、秀頼に関白家を継がせるための布石であったと見るべきかも知れませんね。 www3.nhk.or.jp/news/html/2019…
2019-08-19 11:57:26