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浅井長政命日恒例、さきさんの浅井ツイートあれこれ

浅井長政の新暦命日なので。(セルフまとめ)
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2019年、ネタ切れ

さき@滋賀県の城 @saki_Historic

毎年この日は生き生きと浅井氏のことをツイートするんだけど、さすがにもう新しいネタがないぞ。去年までのツイートの再放送するか。

2019-09-26 09:32:44

というわけで、浅井長政命日恒例の生き生き浅井ツイートを再放流します。

2015年、小谷城の防御思想と落城までの経緯の考察

さき@滋賀県の城 @saki_Historic

小谷城落城が迫ってきましたので、今日は小谷城の防除思想と落城までの経過についてツイートしたいと思います。(長文連投警報発令)

2015-09-25 18:31:27
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

浅井氏の居城・小谷城は小谷山一帯の尾根筋と谷筋の自然地形を活用し、南北ほぼ一直線に展開された山城です。長年に渡って拡張が重ねられた幾重の曲輪と、それを囲むように点在する武家屋敷によって構成されています。浅井氏の滅亡後、長浜城の築城に伴って廃城となりました。

2015-09-25 18:31:49
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

現在は土塁や曲輪のほかに先駆的に取り入れられた石垣などが遺構として残っており、国の史跡に指定されています。築城年には諸説ありますが初代・亮政が京極氏を圧倒して北近江を実質支配するに至った頃に築いたものとされ、その堅牢さから『中世五大山城』のひとつに数えられています。

2015-09-25 18:32:12
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

小谷城の防御思想は至極単純であり、とにかく「奥へ逃げ込む」というものです。城の東西を険しい谷が阻み、北には標高495mの小谷山が聳えます。攻め手は南側から攻めるしかなく、幾重に巡らされた曲輪をひとつひとつ落としながら進むことになります。

2015-09-25 18:32:34
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

主郭部である東の尾根は麓の出丸から金吾丸、二層の天守を持っていたとされる本丸へと続き、その背後には深さ10mの大堀切があります。その先は中丸・京極丸・小丸・山王丸から山頂の大嶽城へと続きます。西の尾根は麓から山崎丸・福寿丸、その先で大嶽城に合流。これが大まかな小谷城の構造です。

2015-09-25 18:32:59
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

本丸と中丸の間にある大堀切の存在が小谷城の防御の要であり、城を上部と下部に明確に区分けしています。本丸で敵の侵攻を食い止めながら中丸以降で防備を固め、仮に本丸が落ちとしても大堀切の先にある中丸まで後退して再戦することが可能となっています。

2015-09-25 18:33:41
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

後詰の城である大嶽城は朝倉氏が築いた城郭と伝わり、近江国内の他の城に比べて先駆的な工法で築かれていたといわれます。この大嶽城からは峰伝いで琵琶湖に抜けることが可能で、浅井亮政が京極高延らに攻められた際、この経路を使って越前に逃れたものと推測します。

2015-09-25 18:34:25
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

兵站の重要性が認知されていなかったこの時代には長期間の軍の滞在が困難であったことに加え、北陸気候の北近江では大雪に見舞われる前に軍を引き払わなければなりません。そういった時代背景と地理的な条件に対して、小谷城は非常に強固な防御機構を備えていたといえます。

2015-09-25 18:35:38
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

そんな小谷城も1573年9月26日、織田信長によって攻め落とされました。

2015-09-25 18:36:09
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

9月4日、阿閉貞征の寝返りによって支城の山本山城が陥落。山本山城を攻略したことで織田方は琵琶湖側からの侵攻ルートを手中に収め、小谷城の包囲が可能となります。また、それは越前の朝倉氏からの援軍ルートが封鎖されたことも意味しており、小谷城は完全に孤立しました。

2015-09-25 18:36:53
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

そして、9日に小谷山北麓にある焼尾砦の浅見道西が降伏したことで峰続きの大嶽城も陥落。23日には城中央に近い京極丸を織田方・羽柴秀吉が西の清水谷を登って急襲。それによって南北に長い小谷城は完全に分断されました。

2015-09-25 18:37:32
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

小丸を守る浅井久政はその日のうちに自刃。浅井長政が守る本丸も26日に陥落し、長政は本丸近くの赤尾屋敷で自刃します。ここに三代50年続いた戦国大名・浅井氏は滅亡しました。

2015-09-25 18:38:12
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

小谷落城の要因も至極単純です。それは「想定していなかった北側と西側から攻め込まれた」からに尽きます。後詰の大嶽城が本丸より先に陥落することも深い谷を登って側面から攻め込まれることも、小谷城の防御思想を根底から覆す事態でした。

2015-09-25 18:39:14
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

また、大堀切が逆に戦力の分断を引き起こし、戦力が集中していた本丸から先に襲撃された京極丸や小丸に救援の手を向けられなかったことも落城を早める原因になったと考えます。これを城に頼った浅井方の甘えと捉えるか、織田方の画期的な戦術と捉えるか、その解釈は分かれるところだと思います。

2015-09-25 18:40:13

2017年、浅井領の経済的規模と朝倉氏滅亡への影響の考察

さき@滋賀県の城 @saki_Historic

1573年9月26日、浅井長政が小谷城赤尾曲輪で自害。小谷城は落城した。

2017-09-26 09:25:41
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

本日9月26日に浅井長政が自害して小谷城が落城したわけですが、厳密には浅井氏はまだ滅亡していません。逃亡中の万福丸を擁した残党が地域権力を回復する可能性が残っているからです。だからこそ万福丸は処刑されたわけですが。

2017-09-26 13:07:02
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

ただ、被官層が軒並み離反して政治的に丸裸の状態で落城に至った浅井氏が自力で権力を回復することはなかったでしょうね。郡クラスとしては大きめの勢力だった浅井氏の旧領がそう大きな混乱もなく次の権力に引き継がれたのは、段取りよく滅亡したからだと思います。

2017-09-26 13:07:30
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

何年か前に浅井氏の勢力範囲を調べていたら経済力的には最大で30万石相当、何らかの影響力を行使できる範囲にまで広げると40万石相当はあったと捉えていて、それだけ大きな勢力を一気に滅ぼすのは権力を引き継ぐ側にもリスクなんですよね。

2017-09-26 13:26:17
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

資料の裏付けがないのでざっくりした数字になりますが、羽柴秀吉が浅井旧領を引き継いだ領地が「12万石」、堀秀村が失脚したときの領地が「約10万石」とされています。正保年間の湖北3郡(伊香・浅井・坂田)の石高合計が約20万石なので、浅井旧領は秀吉と秀村で二分したと捉えられる。

2017-09-26 13:26:42
さき@滋賀県の城 @saki_Historic

この羽柴秀吉の12万石って、言い換えれば滅亡直前の浅井氏の勢力範囲だったともいえます。広義で40万石相当あった浅井領が12万石まで減った状態で滅亡したわけです。

2017-09-26 13:27:06