- yaoki_dokidoki
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烏賀陽弘道さんの『Jポップとはなにか』158頁で、「擬似英語」で歌う日本人という節がある。それについてちょっとだけ。
2011-05-29 20:17:29ここにはBONNIE PINK、MISIAといったブリリアントグリーンといった固有名が挙げられ、「なぜ擬似英語を日本人相手に歌うという奇妙な現象が後を絶たず、聴き手もそれを問題とは感じないのだろうか。」という批判がされている。(159頁)
2011-05-29 20:20:032005年に出版されたこの本では、「日本のポピュラー音楽が外国と肩を並べた」という聴き手のファンタジーをみたすから、という資本主義の需要供給の面からこたえている。
2011-05-29 20:23:22この批判は、僕にとって同意もできるし反論もできる。一応烏賀陽弘道さんはこの本では「そういった表現が必要とされて、必要に合わせて作品が作られているなら否定はしない」と言っている。
2011-05-29 20:27:19そんなことよりも時代は進んでしまった。もっと別のことを僕は考えるようになった。烏賀陽弘道さんもこの本でかかれているように、Jポップでは英語の意味は問題ではない、英語風の音が問題なのだ。なぜ、と問うこともできるが、それは単なる批判の文にしかならなかった。
2011-05-29 20:31:13この2つは、音楽の創作、とくにポップさというものを取り扱うJポップにおいてはつよい武器になったと思われる。端的に言って、音楽の表層をどんどんと取り替えていくためのエフェクター/サンプル音源/記号が増えたからだ。
2011-05-29 20:46:16英語風の音をとりいれることは、形式を「わかりやすく」見せるための記号としてとても便利だと思う。なぜなら、例えばAメロやサビの入りを英語で始め、後半を日本語で記述することで、シーンの切り替わり、雰囲気の切り替わりがとてもわかりやすくなるからだ。
2011-05-29 20:49:12音楽の制作において、シーンの切り替えというのは重要だ。そして、場面をより長く持続させたり、なめらかにつないだり、めざましく切り替えるということにはテンションとかではなく、表現そのものについての一定の正確な技術が要る。
2011-05-29 20:57:06他の表象メディアにおいてはともかく、音楽においては「下手さ」や「つまんなさ」「無意味さ」といったネガティブね表現ですら、楽曲の中に効果的に配置されることで価値を十分にもつことができる。
2011-05-29 21:00:50だから、歌詞の無意味さというのも「無意味」というエフェクター/サンプル/記号として十分に価値があっただろう。
2011-05-29 21:03:55つかえる音、と僕がいうとき、ふたつの意味を同時にしめしている。ひとつは「p」や「w」の音がつかえるということ。つまり単音について。もうひとつは「スウィ」とか「スト」とかの音のならびかたがつかえるということ。つまり音の列について。
2011-05-29 21:11:59順列組み合わせ的には可能な音列があったとしても、意味を考えるとどうしてもつかえなかっただろう。それをクリアするのに、英語風の音列を導入するというのはいい解決だったはず。なぜか。
2011-05-29 21:14:31順列組み合わせでつくられた完全に意味不明な音列というのは、音楽においてあまり役にたたない。音列というのは、形式、つまり始まりと終わりが認識されなければ制作のツールとしては役にたたないからだ。
2011-05-29 21:18:00音のききとられかたとして、「ほにかすぺらんらんべきーたきた」とまるまる1フレーズか、「ほにかす/ぺらんらん/べきーたきた」か、「ほにかす/ぺらんらんべ/きーた/きた」か、というふうに区切ってききとられたいという欲望があるとき、無意味な音列ではそれを操作することができない。
2011-05-29 21:28:21一方、意味を介することで「わたしは/あなたを/すきなのよ」と任意の位置で分けて聞き取らせることはずいぶんと楽になる。これはツールとして便利。無意味な音列はどんなにいいサウンドのエフェクター/サンプル音源だとしても、ツールとしてつかいづらい。
2011-05-29 21:31:49[定期ポスト][fumikahihyou_001]『「ハレ晴レユカイ」のアナライズ』フミカ批評から正式りりーす。批評レーベルやりたいなっ。:フミカレコーズ|フミカ批評 http://t.co/pfoitNd
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