10/15 #戦国島津 展、講演と展示感想

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日光81 @nikko81_fsi

先週の振り返りを敢えて甲府でやるなど。#戦国島津 展の展示解説講座「戦国時代を駈け抜けた島津義弘」黎明館学芸課主事の小野氏。義弘没後400年だが、義弘だけでなく忠良から島津四兄弟や忠恒まで南九州の戦国時代に島津を位置づける展示。そして島津家文書が立派に修復されて後の初展示だとか。

2019-10-20 14:00:43
日光81 @nikko81_fsi

島津初心者としては、島津始祖である惟宗忠久から解説くださったのがよかった。忠久が薩摩・大隅・日向の三州守護職に任じられたことが #戦国島津 が始まる前の前史として重要な位置づけ。比企の乱後薩摩は取り戻すものの、一時的に三州太守になる当主はいるものの、叶わない島津氏。

2019-10-20 14:04:56
日光81 @nikko81_fsi

一族内の抗争も多い島津氏、総州家と奥州家の分裂もそれぞれ薩摩守護・大隅守護を分かち、何れは始祖の如く三州太守をこの手に、という意識があったのだろうなぁと想像。このあたり、そしてかなり宗家筋から遠い伊作家から宗家を乗っ取っていく忠良・貴久の歴史を理解するベースになろう。

2019-10-20 14:10:30
日光81 @nikko81_fsi

総州家を嗣いだ忠良・貴久、奥州家・忠兼(勝久)、薩州家・実久の抗争は、最終的に元の宗家が勝ち残って戦国大名化するか、庶流が勝ち上がり宗家を継承するか、の違いはあれど、信昌・信縄・信虎あたりの武田家が戦国大名化していく過程と比較しながら理解していくとおもしろい。

2019-10-20 14:16:31
日光81 @nikko81_fsi

島津義久・義弘・歳久の初陣が天文23(1554)年、貴久→義久の家督継承が永禄9(1566)年。貴久自体はあまり長命ではないものの、忠良が長命で精神的にまとまる支柱になったのかなぁ。天文から永禄にかけての苦しい時代を生き抜いた貴久も有能なはずなんだが、どうも影が薄く感じてしまうが…

2019-10-20 14:26:12
日光81 @nikko81_fsi

薩摩統一から悲願の三州統一まで7年。貴久が宗家継承して薩摩統一までが44年。一方、信虎家督継承1507年で甲斐統一が1532年で25年、信玄の駿河攻略完了が1570年で38年。一国統一が比較的早い武田と薩摩統一から三州制覇が早い島津。三州統一の早さは長い忠良・貴久の頃の下地があってこそだろう。

2019-10-20 14:36:08
日光81 @nikko81_fsi

三州統一後の大友・龍造寺との対決。島津の九州一統の野望故ではなく、三州統一した島津の力を認める北部九州の反大友国衆らに「頼られて」対決の道に進むという戦国期の軍事的安全保障体制に組み込まれる島津という文脈での理解。上井覚兼日記で島津を「九州の守護たる存在」と持ち上げる様に面白み。

2019-10-20 14:42:06
日光81 @nikko81_fsi

三州統一後の島津は絶対的な年代ではズレがあるものの、信玄晩期から勝頼期の「戦国最強」感のある武田を彷彿とさせる。そして跡取りのいない義久の後継に義弘が「名代」に指名され、両殿体制に移っていくとともに、秀吉の影が見え始める頃。個人的に義弘の「名代」という立場にものすごく関心あり。

2019-10-20 14:48:29
日光81 @nikko81_fsi

端的に言えば勝頼の「陣代」を思い出すわけですよ。次世代には家伝文書(だったかな)は義久から忠恒(家久)に継承されているらしいのだけど、義弘本人は島津十七代の自覚がある。この辺の意識のズレが秀吉の巧妙な策と絡まって義久と義弘を引き離していく。

2019-10-20 14:54:46
日光81 @nikko81_fsi

大友攻めで揉める義久・義弘。島津には九州一統の欲はなく、信長から大友と和せとの書状もあり、秀吉と決する義理はない。また戦国大名として「求められる」安全保障ゆえの大友との対立であって結果論とする義久の立場は、そもそもの島津のあり方や大局的に視た生き残りを考えれば妥当に思えた。

2019-10-20 14:58:45
日光81 @nikko81_fsi

一方の義弘があくまで大友制圧にこだわったのは何故だろうか、というところの理解を今後深めたい。義弘の権力基盤に帰結する問題だとすると勝頼の辿った悩みに近いものを想像した。ただ義久も直接的に義弘と衝突しないよう、巧妙に避けつつ、大友ひいては秀吉とも軟着陸したい義久の苦渋さも感じる。

2019-10-20 15:04:02
日光81 @nikko81_fsi

この辺の義久の視野の広さは、祖父忠良が義久を評して「三州の総大将たる材徳自ら備わる」という通りであろうか。組織論が好みのわたしとしては、義弘だけでなく、義久が俄然興味が出てきたというのはこの辺の事情。義久けっこう扱いが地味なんだけども…

2019-10-20 15:08:00
日光81 @nikko81_fsi

ひょっとしたら権力基盤が不安定(というか両頭体制を前提にした名代)だったかもしれない義弘は、秀吉に降り、義久が剃髪・隠居したことで、義久が率いた旧来の戦国大名島津家から豊臣政権を後ろ盾にした豊臣大名島津家になることで、一応の権力基盤を安定できたように思えた。だからこそ…

2019-10-20 15:13:39
日光81 @nikko81_fsi

文禄の役での「日本一之遅陣」が致命的であり、「雄武英略を以て傑出」と評された義弘だからこそ、何としてでも戦功を立てねばならないという義弘にかかる重圧。自身が死んだ後子の行く末を案じ、妻に強く生きよという妻・宰相に宛てた文書からそんな追い込まれた様子を読み取ることができた。

2019-10-20 15:19:01
日光81 @nikko81_fsi

そこであの南原城の戦いと泗川の戦いである。特に泗川の戦いは島津方の幸運もあったように思うが、あれが島津義弘の本質というわけでは決してなく(無論、戦上手の名将ではあるにしても)火事場のクソ力、窮鼠猫を噛むということではないか…そんな島津義弘を想像するのも楽しい。

2019-10-20 15:24:52
日光81 @nikko81_fsi

最後に泗川での赤と白の狐の話に絡めた義弘の正当性アピール。泗川での勝利の際に赤と白の狐(狐は始祖・忠久以来の吉祥のしるし)が出た話を義久が報告を受け話を合わせて内外に喧伝。実際は赤縅と白縅の武者では?とのことだが、正当性が問題にされること自体、基盤の不安定さを想像させてしまうね。

2019-10-20 15:30:14
日光81 @nikko81_fsi

ということで、今回のお話には「島津の退き口」の話まで到達しなかったんですがむしろ島津義弘というと、鬼石蔓子か島津の退き口かみたいなところがあるので、そこに至るまでの島津の歴史を武田と対照させつつ(笑)理解でき、その面白さの一端に触れられたのがよかったね。

2019-10-20 15:32:48
日光81 @nikko81_fsi

そして #戦国島津 展示。気になった展示を挙げていきますか。①蔵人甘露寺元長奉口喧案。11代島津忠昌を陸奥守に任じるものだが、足利義政の袖判付き。将軍が口添えして官位が下されるときはこうなるのな。あとずっと島津は藤原姓で認識されていたんだと確認。

2019-10-20 15:42:09
日光81 @nikko81_fsi

②日新斎起請文案。永禄七年四月二十二日。直前に貴久が陸奥守に遷任、代わって義久が修理大夫に任じられ島津家の安泰の他は何も望みはないというもの。自ら三州太守の気風ありと評した義久への家督継承の目処が付き安堵する様子を想像させる。義久にとっても偉大なる祖父からの大事なお墨付きだろう。

2019-10-20 15:48:28
日光81 @nikko81_fsi

③岩剣合戦記。典厩様と出てくるんだけど誰のことだろうか?と調べると 貴久の弟忠将じゃなかろうか。弟が典厩で兄に先んじて戦死、息子(以久)も典厩だなんて、信繁・信豊じゃーんw なんという武田感www

2019-10-20 15:54:31
日光81 @nikko81_fsi

③岩剣合戦記。典厩様と出てくるんだけど誰のことだろうか?と調べると 貴久の弟忠将じゃなかろうか。弟が典厩で兄に先んじて戦死、息子(以久)も典厩だなんて、信繁・信豊じゃーんw なんという武田感www

2019-10-20 15:57:26
日光81 @nikko81_fsi

④島津貴久書状写。調停案に意見を求める貴久に応える義久。嫡子を後継者として評価し認め、義久もそれにしっかり応えている感じがする。嗚呼、信玄義信親子がこううまくいっていたらなぁ…(すぐ武田が顔を出す)

2019-10-20 15:57:45
日光81 @nikko81_fsi

⑤龍伯公以呂波御歌。先週までは義久の、16日からは貴久の(伯囿公伊呂波御歌)が展示。日新斎だけじゃないんだねぇ。両者とも日新斎忠良に霞みがちだけど、島津の精神的な支柱として認識はされていたということなのかな。

2019-10-20 16:01:22
日光81 @nikko81_fsi

⑥色々縅胴丸兜大袖付。島津貴久が奉納。守護家らしい雰囲気で武田も好みそうなデザイン。

2019-10-20 16:04:38
日光81 @nikko81_fsi

⑦島津家久家紋付旗。藤原義久の文字と諏訪…と書いてある。あれ、中世は諏「方」じゃなかったっけ?これ、義久の自筆だろうかね?署名の「義久」と文字がよく似ている。とすると、義久の字すごく達筆だよね。あるいはこういう旗に書くのも、右筆が書くのだろうか?

2019-10-20 16:09:19