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元亀3年、将軍足利義昭が主導する信長包囲網の一翼を担う武田信玄は上洛を果たすべく美濃、三河、遠江の三方面から織田、徳川領への進軍を開始した。 pic.twitter.com/Iv37h1Xuru
2019-10-14 23:41:42青崩峠。この峠は遠州と信州の境にあり信州街道の要所であるようだ。「西上作戦」の際、武田信玄の軍勢が三河に進軍する際にこの峠を越えたとされる。 pic.twitter.com/y2di6Azhj9
2020-10-10 20:02:15信玄滝。「青崩峠」を越える前に武田信玄が休憩したとされる滝。武田信玄は「信玄滝」で休憩し顔を洗ったとされる。 pic.twitter.com/pg04geSTbr
2020-10-10 20:05:14「塩の道登り来たりて望み 見る 信濃の国の青き山並」 pic.twitter.com/1y0ZApAAWF
2020-10-10 21:07:02武田信玄腰掛岩。武田信玄が腰を掛けたとされる岩。 pic.twitter.com/BfqBmA7HtI
2020-10-10 20:22:19武節城跡。信濃国と三河国の境にある徳川氏の支城のひとつである、、この徳川氏と武田氏の最前線基地である武節城の城主は「山家三方衆」の一人田峯城主菅沼定忠だった、、 pic.twitter.com/MyCC4dI2ye
2019-10-14 23:54:21姫井戸。武節城の麓にある井戸。武田信玄配下の武将、下条信氏に攻められ武節城落城の際、御姫様がこの井戸に身を投げた、という伝承からこの井戸に「姫井戸」という名が付いた。 pic.twitter.com/JJk614zAmW
2020-05-06 10:09:17「武節城」は元亀2年の時点で既に武田氏に降伏していた。田峯城主菅沼定忠の降伏が切欠となり奥三河の豪族三家である「山家三方衆」は徳川氏と武田氏に分かれて分裂していくこととなる。 pic.twitter.com/59ir7lQonY
2019-10-15 00:01:47亀山城。奥三河の作手郷にある城郭で「山家三方衆」の一人である奥平定能の居城だった。作手郷の奥平氏は群馬から奥三河に移り住んだといわれている。 pic.twitter.com/OjDCuhHYBP
2019-10-15 00:16:11武田信玄による三河侵攻の際、亀山城は戦わずして武田信玄に属した。作手郷の奥平一族が武田氏に属したことで「山家三方衆」の三家のうち二家が徳川氏の敵になったのである。 pic.twitter.com/AjNO00wz1H
2019-10-15 00:21:23長篠城跡。この城は「山家三人衆」のうちの一家、長篠菅沼氏である菅沼正貞が守備していた。徳川方の要城である長篠城は山県昌景率いる武田軍別働隊による攻撃を受けている。 pic.twitter.com/35ab20eI1R
2019-10-15 00:51:49長篠城主菅沼正貞は田峯城主菅沼定忠の説得を受けて武田軍に降伏した。長篠城が落城したことで「山家三方衆」は全て武田家に寝返った。しかし野田菅沼氏のように「山家三方衆」以外で徳川氏に味方をし続けるの奥三河の豪族は存在していた。 pic.twitter.com/eKKHnhdIlL
2019-10-15 00:57:36「長篠城」を攻略した武田軍は徳川氏の要城「二俣城」を攻略すべく動きだす。「二俣城」を攻略することで武田軍は天竜川を境に徳川領を東西に分断する意図があったと思われる。 pic.twitter.com/4wVTtStZQ4
2019-10-15 01:13:38天方城跡。静岡県森町に所在する山城で天方氏の居城。天方城は「西上作戦」の際に武田信玄によって攻略された徳川方の城郭の一つのようだ。 pic.twitter.com/sJmlnBEQiA
2020-12-08 08:10:30天方一族墓。蔵洞院境内に所在する天方城主天方一族の墓。これらの五輪塔は「天方氏三代の墓」と伝わっているようだ。 pic.twitter.com/NEBMLTlQkd
2020-12-08 12:18:36天方城主天方通興は「風林火山」の旗を靡かせて進撃する武田軍に恐れをなし戦わずして降伏したという。 pic.twitter.com/R166XJCfbR
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