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桶狭間の戦い~長篠の戦い~岡崎・名古屋の歴史旅2019

2019年9月3連休で訪ねた主に戦国時代をメインとした史跡・古戦場の旅のまとめです。
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

旅をしている間は史跡を訪ねる事に集中してしまい、旅レポが後になりがち💦 広島探訪レポや歴ツイの途中ですが始めないと滞っていくので #愛知県の歴史旅 も展開しようと思います─=≡Σ((( つ•̀ω•́)つ 今回は戦国時代が中心ですヾ(・ω・`) pic.twitter.com/H9DRhwFdxq

2019-09-18 15:23:31
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

織田信長戦地本陣跡 (愛知県新城市牛倉字城山 長篠設楽原PA) 1575年6月26日(天正3年5月18日)長篠設楽原の戦いの時、設楽原に軍を進めた織田信長は当初、極楽寺山に本陣を置きました。 極楽寺は戦の折に焼き払われ、今はその姿は在りません。 pic.twitter.com/35EOkOIomq

2019-09-18 20:18:43
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決戦を前にした軍議で、鳶ヶ巣山奇襲の進言がここで行われその後、信長は茶臼山に本陣を移し 指揮を執りました。 ここには全国でも珍しい信長が心境を詠んだ歌碑もあります。 「きつねなく 声もうれしくきこゆなり 松風清き 茶臼山かね」 pic.twitter.com/M3McldxsOX

2019-09-18 20:18:44
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武田勝頼本陣跡・医王寺 (愛知県新城市長篠弥陀の前256) 長篠山医王寺は1514年(永正11年)に創立され、曹洞宗で薬師如来を本尊とし 克補契嶽大和尚によって開山された寺院です。 1575年(天正3年)の長篠・設楽原の戦いの時、武田勝頼が背後の医王寺山に本陣を置きました。 pic.twitter.com/gLovyeFZLD

2019-09-20 19:09:29
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境内には「武田勝頼公本陣跡」の石碑が建っています。 後日、長篠城の後詰に織田信長と徳川家康の連合軍が現れたとの報を受けると 山県昌景や馬場信春などの諸将と軍議が開かれ連合軍との決戦が採択されます。 pic.twitter.com/nQ2oopi43m

2019-09-20 19:09:30
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境内の弥陀が池には勝頼の設楽原出撃を諌めたアシが勝頼の勘気にあって切りつけられ、片葉になったという「片葉のアシ」が生えています。 #愛知の歴史旅 #長篠の戦い pic.twitter.com/rdYG7drmvJ

2019-09-20 19:09:30
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次にご紹介する写真ですが、ガラスケースが写っているものは長篠城史跡保存館より撮影許可・SNS掲載許可を頂いたものですので、無断転載・無断での画像保存はご遠慮ください。

2019-09-26 12:49:05
ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

1575年6月22日(天正3年5月14日)長篠城内は落城の危機の中、城主奥平貞昌は一族老臣を集め 軍議を開いていました。 武田軍に包囲され総攻撃を受けて約1週間、城内の資材施設と兵の消耗は激しく籠城防御の限界と判断、岡崎に居る家康に援軍を求める事で決します。 pic.twitter.com/tALHiV4xDd

2019-09-26 12:49:06
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この時、使者として指名され 任務を指示された人物が家臣で足軽の鳥居強右衛門だと考えられます。貞昌から大命を受けた強右衛門は、その夜丑の刻(午前2時頃) 細雨の中 豊川(寒狭川)に降り、川の中に張られた鳴子網を掻い潜り 約4km下流まで泳ぎ下りました。 pic.twitter.com/sIfuf6npZR

2019-09-26 12:49:06
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6月23日(5月15日)夜明け、かねてより打ち合わせしていた雁峰山で「脱出成功せり」の狼煙を上げ、強右衛門はその足で岡崎城までの道をひた走りました。 現在、地図でその距離を調べてみると一番遠くて約60kmもあり、歩くと約12時間もかかります(´⊙ω⊙`) (´⊙ω⊙`) pic.twitter.com/FlVKGu6yKe

2019-09-26 13:02:59
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岡崎城に到着した強右衛門を迎え入れた貞昌の父・奥平定能は長篠城の窮状の報告を聞き、貞昌からの書翰を受け取りました。 強右衛門は奥平定能に伴われて家康・信長に接見し、改めて長篠の様子を伝え、援軍の要請をします。 pic.twitter.com/fPvWB5Inyz

2019-09-26 13:02:59
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信長は強右衛門の勇気を讃え、本隊進軍の道案内をするよう命じますが 強右衛門は長篠城に一刻も早く朗報を伝えたいと申し出、長篠を目指しました。 翌6月24日(5月16日)雁峰山まで戻って来た強右衛門は「援軍来る」の狼煙を上げ、その足で脇道から長篠城対岸の篠場野(現:新城市有海)に到達、 pic.twitter.com/yUogIRRNLL

2019-09-26 13:03:00
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入城の機会を狙っていました。しかし かねてより城中に間諜者があると警戒していた武田軍は服装が濡れ挙動不審、武田軍で取り決めていた合言葉を 答えられなかった強右衛門を怪しみ、捕らえます。直ちに本陣に送られた強右衛門は糾問を受けますが、臆する事無く真実を述べます。 pic.twitter.com/FkySSjHRPy

2019-09-26 13:03:00
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その堂々とした態度に武田軍は「速やかに城を開き、武田に投降しろと言えば恩賞を授けよう」と強右衛門を味方に引き入れ、戦局を有利に導こうとします。 強右衛門は表向きは快諾し、勇んで城に向かいますが「織田公は一ノ宮に、徳川公は野田に進軍せり、2~3日で到着するはずだ」と絶叫しました。 pic.twitter.com/QpBCIIgtzp

2019-09-26 13:03:01
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これを聞いた勝頼は怒り、その場で部下に命じて強右衛門を殺してしまいます。有海原の篠場野に建てられている「鳥居強右衛門磔死之跡」碑。強右衛門ははここで磔にかけられたと伝えられています。  「わが君の命に代わる玉の緒を、何いといけん武士の道」 これは軍記が伝える強右衛門の辞世です。 pic.twitter.com/05HgWJ9Ci7

2019-09-26 19:28:17
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武田軍の中には長篠城の味方全員を救うために自分を犠牲にして忠義を尽くした強右衛門の勇気を称え、強右衛門の助命を求める家臣たちもいましたが 勝頼は彼らの意見を無視して強右衛門を殺してしまったのです。 これを知って憤った家康は「勝頼のような武士の忠義を大切にしない大将は pic.twitter.com/8Q6qIuCmCH

2019-09-26 19:28:18
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いずれ家臣たちの離反を招いて滅亡する事になる」と断言し、勝頼の残虐非道な所業を厳しく批判したと伝えられています。 強右衛門勝商の子・信商は父の功により100石を与えられ、貞昌の子・松平家治に仕えます。家治が早世すると貞昌の許に戻り関ヶ原の戦いに従軍、京都で安国寺恵瓊を捕縛する pic.twitter.com/eBt51n1gTy

2019-09-26 19:28:19
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大功により200石に加増されました。その後は貞昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家・奥平氏の支流(現:埼玉県行田市にあった)の忍藩で明治維新を迎えた奥平松平家を興すに至り、信商を家臣にもらい受けています。 また 13代目の商次が家老になるなど、子孫は家中で厚遇され pic.twitter.com/baVkBp8MLk

2019-09-26 19:28:19
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強右衛門の家系は現在も存続しています。 長篠の戦いからおよそ7年後の1582年4月3日(天正10年3月11日)家康の予言通りかは定かでありませんが、勝頼は最終的に家臣たちの大部分から離反され、自害し 武田家は滅亡しました。 ※この写真は2枚目を除き山梨県甲州市景徳院の写真です #愛知の歴史旅 pic.twitter.com/0oFWpDYnHK

2019-09-26 19:28:20
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日本100名城・長篠城 (愛知県新城市長篠字市場22-1) 長篠城は 三河設楽郡長篠(現:愛知県新城市長篠)に在った日本の城で 現在は国の史跡に指定され、城跡として整備されています。 城はこの地域の交通の要衝の地に在り 寒狭川(現:豊川)と大野川(現:宇連川)が合流する場所に突き出した pic.twitter.com/pztYoLu49w

2019-09-27 20:45:30
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断崖絶壁の上に建っていたため、2つの川と断崖絶壁に守られた天然の要塞だったのです。二の丸外側に三の丸、弾正曲輪などが在り、本丸の西側に 服部曲輪・野牛曲輪なども築かれ、城域を北側を囲むように木柵が作られていました。川と断崖のおかげで南と東西の守りは堅固ですが、 pic.twitter.com/BP3BqdTtrY

2019-09-27 20:45:30
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北側は台地状に平地が広がっており、そのままでは守りが弱かったのでしっかりとした堀も掘られていたようです。 1508年(永正5年)今川氏親に誼を通じた菅沼元成が築城され 元成とその子孫・長篠菅沼氏が居城としました。その後は徳川家康に服属するようになりますが 1571年(元亀2年)武田信玄による pic.twitter.com/5bP8NXVavD

2019-09-27 20:45:31
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三河侵攻の一端として、戦国武将・天野景貫に攻め込まれます。攻守双方の払った犠牲は大きく陥落だけは免れますが 菅沼総領家・田峯菅沼氏から 遣わされた使者の説得を受け、城主だった元成の直系玄孫・菅沼正貞は心ならずも武田軍の圧力に屈しました。 pic.twitter.com/06RwvEOZ7J

2019-09-27 20:45:32
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1573年(元亀4年)武田家の当主・信玄の病が悪化し、前年末から続いていた武田軍の西上作戦が春には切り上げられ 武田軍は本国へ撤退し その途中で信玄は死去。 その間隙に徳川家康によって攻められた城主・正貞は 1573年(天正元年8月)には開城退去、幽閉され 城に返り咲く事はありませんでした。 pic.twitter.com/mJOWV3srRI

2019-09-27 21:05:53
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ℳ.日本史と近代史◇歴女と呼ばないで @MoeK20060408

※現在残る本丸の大規模な土塁などは この時のものと考えられます。 同年 徳川方から武田方に転じていた奥三河の国衆・奥平信昌は秘匿されていた武田信玄の死を疑う父・貞能の決断により一族を連れて徳川方へ再属。 奥平家は武田家から奪還したばかりの長篠城に配されます。 pic.twitter.com/l36aSOxrnu

2019-09-27 21:05:54
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