学びは遊び、遊びは学び

勉強は遊びと対立概念のように捉えられる。しかし実は、「親が期待する遊び」と「親が嫌がる遊び」の別があるだけではないか。
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shinshinohara @ShinShinohara

子どもを育てる際、ある仮説に基づいた実験をしようと決めていた。「学びは遊び」というもの。勉強と遊びは明確に区別されているが、本来学びは、楽しくて仕方のない、遊びと区別のできないものだと考えていた。学ぶことを遊ぶことと同一視すれば、単純に学ぶことが好きになるのでは、と。

2019-12-24 18:12:10
shinshinohara @ShinShinohara

おばあちゃんがドリルをお土産にもらってきた。子どもたちがやりたがり、寝る時間になってもやめようとしないので「今日はここまで!もう寝るよ!まだやってるの?!早くキリをつけてパジャマに着替えなさい!」と言っても「あといちぺーじ・・・」とか言って、なかなかやめようとしない。

2019-12-24 18:26:34
shinshinohara @ShinShinohara

子どもの中では恐らく、学ぶことと遊ぶことの区別があまりついてない。学ぶことは遊ぶことであり、遊ぶことは学ぶこと。息子が3歳か4歳のとき、「学」という字を見て「あそぶ」と読んだ。まなぶ、という読みであることを知ってるはずなのでなぜ?と聞くと、「まなぶことはたのしいから」という答え。

2019-12-24 18:39:25
shinshinohara @ShinShinohara

私たちの中では、遊びも学び。遊びの中には新しい謎や発見がある。新しい工夫の余地もある。遊びの中に学びがいっぱい。だから、学ぶことをドリルなどの教材をやることだとはとらえていない。遊びながら学ぶ。学びながら遊ぶ。というか、遊びと学びが区別ついてない。

2019-12-24 18:42:03
shinshinohara @ShinShinohara

なぜ遊びと学びの区別がつかないのか。ともに、「できない」を「できる」に、「知らない」を「知る」に変えていく行為を楽しむものだから。ゲームでクリアできなかった面をクリアできるようになった。解けない問題が解けるようになった。どちらも同じ。区別は本来つかない。

2019-12-24 18:44:10
shinshinohara @ShinShinohara

区別がついてしまうのは、大人がやってほしいことか否か。つまり親の期待に沿うかどうか、ただそれだけの色分け。その色分けのために、子どもは学びが「勉強」という苦痛に満ちたものとなり、遊びはひたすら苦痛から逃避するための異世界に変わってしまう。

2019-12-24 18:46:32
shinshinohara @ShinShinohara

我が家では、学びを遊びと区別できないものとして扱うので、次のようになる。 ・やってもいいけど、やらなくてもいい。 ・どうせやるなら、新しい発見や工夫を楽しむ。 ・「できない」を「できる」に変える工夫や努力、苦労に驚き、面白がる。 すると、遊びと学びに区別がなくなる。

2019-12-24 18:59:47
shinshinohara @ShinShinohara

私たち夫婦は、先生には申し訳ないけど、宿題はやってもいいけどやらなくても仕方のないことととらえている。やらなかったら私たちが謝ろう、と。 やるべきことと親が捉えたら学びが義務になり、勉めて強いてもやろうとしない「勉強」になってしまう。

2019-12-24 19:21:07
shinshinohara @ShinShinohara

Eテレ(NHK教育)は最近、遊びなのか学びなのか境界線が曖昧な、というか、境界線がどうやら存在しない番組づくりをしている。たぶんEテレの制作スタッフも、遊びと学びを同一視する視点で学びを捉え直しているらしい。だから、私の捉え方はたぶん特別なものではない。

2019-12-24 20:47:59
shinshinohara @ShinShinohara

学校の学びも、遊びとの境界線がなくなる形にシフトしていけばいいな、と思う。子どもは本来、遊びの中から学ぶ能力が非常に高い。小学校に上がるまでは、遊びの中で言葉でも運動能力でも培う。小学校に入学したとたん、「勉強」になって嫌いになり、成長が鈍化する。残念。

2019-12-24 20:52:17
shinshinohara @ShinShinohara

学校の先生もそれには気づいている。カリキュラムに準拠して教えるしかない立場では、あまり挑戦的なことはできない。カリキュラムの方を遊びの中から学ぶものに、というか、遊びと学びを渾然一体化したものにデザインしてもらえたらと思う。

2019-12-24 20:54:18