三大読ませるWikipedia記事として「三毛別羆事件」「岡田更生館事件」「地方病」が話題に→みんなのオススメ記事が集まる

自分はアムンセンの南極点遠征とか好きです。
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唐木元 @rootsy

読ませるWikipedia記事トップ3といえば「三毛別羆事件」「岡田更生館事件」「地方病」でファイナルアンサーになってると思うんだけど、この中だと岡田更生館の知名度がいちばん低い気がしていて、でもいま起きてることといちばん響き合うのが岡田更生館事件だと思う。なのでまだの方いたら、ぜひ。

2020-01-02 16:56:52
リンク Wikipedia 三毛別羆事件 三毛別羆事件(さんけべつひぐまじけん)とは、1915年(大正4年)12月9日から12月14日にかけて、北海道苫前郡苫前村三毛別(現:苫前町三渓)六線沢で発生した、クマの獣害(じゅうがい)としては記録的な被害を出した事件。六線沢熊害事件(ろくせんさわゆうがいじけん)、苫前羆事件(とままえひぐまじけん)、苫前三毛別事件(とままえさんけべつじけん)とも呼ばれる。エゾヒグマが数度にわたり民家を襲い、開拓民7名が死亡、3名が重傷を負った。事件を受けて討伐隊が組織され、問題の熊が射殺されたことで事態は終息した。事件の 1722
リンク Wikipedia 岡田更生館事件 岡田更生館事件(おかだこうせいかんじけん)とは、岡山県吉備郡岡田村(現倉敷市真備町岡田)に1946年(昭和21年)12月から1950年(昭和25年)まで存在した浮浪者収容施設・県立岡田更生館で起きた監禁、暴行傷害、殺人事件である。犠牲者は開設から2年余りで76名にものぼった。1949年(昭和24年)2月、毎日新聞大阪本社の社会部記者であった大森実が浮浪者に変装して施設内に潜入し、朝刊社会面で事件を報道、"この世の地獄"として世間を震撼させた。 太平洋戦争後の混乱期であった1946年、戦禍で家、家族、職を失 191 users 249
リンク Wikipedia 地方病 (日本住血吸虫症) 本項で解説する地方病(ちほうびょう)とは、日本住血吸虫症(にほんじゅうけつきゅうちゅうしょう)の山梨県における呼称であり、長い間その原因が明らかにならず、住民に多大な被害を与えた感染症である。ここではその克服・撲滅に至る歴史について説明する。日本住血吸虫症とは住血吸虫科に分類される寄生虫である日本住血吸虫(にほんじゅうけつきゅうちゅう)の寄生によって発症する寄生虫病であり、ヒトを含む哺乳類全般の血管内部に寄生感染する人獣共通感染症でもある。日本住血吸虫はミヤイリガイ(宮入貝、別名カタヤマガイ)という淡水産 1804
王子@第一種怠惰無責任者 @ojitw

岡田更生館事件、すごい記事だった……。悪事が明るみに出たにも関わらず、まだ施設への恐怖から手を挙げられない収容者達。大森記者が潜入していなかったら、被害者達自身からの叫びは届かなかったかもしれない。 twitter.com/rootsy/status/…

2020-01-03 16:35:52
ジュナス @junya_kkursi

とりあえず今ここまで読み終えたけどすごくドキドキしてる twitter.com/rootsy/status/… pic.twitter.com/DVxu81bIQC

2020-01-04 05:50:41
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ジャイアントばば @baba_wotome

@rootsy F外失。おっしゃるとおり岡田更正館は知らず、早速読みました。展開としては胸熱でしたが、小説と違い実際に犠牲となった方が大勢いたのだと思うとなんとも悲しい気持ちになりました。教えて下さって有難うございました。

2020-01-03 10:29:44
むい💉💉 @28duQYoo3XV6W1D

@rootsy すごいものを読ませて頂きました!ありがとうございます。 福祉が充実していて現在も国境なき医師団の本拠地などがある岡山でこんな事件があったとは知りませんでした。 また当時の新聞記者の方の気概に感服いたします。

2020-01-03 14:36:26
だいず:紫グラ @daizu1977

@rootsy URL貼っておきます! ja.wikipedia.org/wiki/%E5%B2%A1… 凄いwikiを教えて頂いて有難うございます。横溝正史とかの昭和初期サスペンスのような素晴らしい読み物でした!

2020-01-04 10:30:33
わしお @washicomp

@rootsy 「岡田更生館事件」だけ知らなかったので読んでみました… …凄まじい内容と驚きの読み応えでした。 ただ、ウィキペディアで記事の執筆をやっていた経験からすると、大森氏の著書の引き写しっぽいのと、脚注が文量に対して少な過ぎるのが気になりますね。読み物としては最高ですが百科事典的でない…

2020-01-03 17:42:12

他にもみんなのおすすめが続々と

増田翡翠 @sirokumapoyonpo

@rootsy 失礼します。川端康成の元婚約者「伊藤初代」も、なかなかの読みごたえだと思います。

2020-01-04 01:04:13
リンク Wikipedia 伊藤初代 伊藤 初代(いとう はつよ、1906年(明治39年)9月16日 - 1951年(昭和26年)2月27日)は、川端康成の元婚約者。15歳の時に22歳の川端と婚約し、その1か月後に突然婚約破棄を告げた女性である。その事件による失意が川端の生涯の転機となり、様々な作品に深い影響を与えたことで知られる。川端の永遠に満たされることのなかった青春の幼い愛は、清潔な少女への夢や、聖処女の面影への憧憬を残し、孤児の生い立ちの克服という命題と融合しながら独自の基盤をなして、川端文学の形成に寄与した。 伊藤初代との事件を直接 3 users 18
高村武義 #WalkAway @tk_takamura

@rootsy @1059kanri 失礼します。関東大震災の犠牲となった詩人、富田木歩の記事もなかなか読ませる内容となってます。 ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AF%8C…

2020-01-03 20:31:23
リンク Wikipedia 富田木歩 富田 木歩(とみた もっぽ、1897年4月14日 - 1923年9月1日)は俳人。本名は一(はじめ)。東京市本所区新小梅町(現在の東京都墨田区向島一丁目)生まれ。最初の俳号は吟波、後に木歩と号す。誕生の翌年、高熱のため両足が麻痺し生涯歩行不能となる。俳号の木歩は、彼が歩きたい一心で自分で作った木の足に依る。富田木歩は歩行不能、肺結核、貧困、無学歴の四重苦に耐えて句作に励み、「大正俳壇の啄木」と言われ将来を嘱望されるが、関東大震災で焼死した。26歳の生涯であった。 富田家は旧家で代々、向島小梅村近辺の大百姓 3 users 28
リンク Wikipedia 神戸連続児童殺傷事件 神戸連続児童殺傷事件(こうべれんぞくじどうさっしょうじけん)とは、1997年(平成9年)に兵庫県神戸市須磨区で発生した当時14歳の中学生による連続殺傷事件。少年が名乗った名前から別名『酒鬼薔薇事件』『酒鬼薔薇聖斗事件』とも呼ばれる。 本項では事件を起こした少年の仮名を、後述するのちに本人が出版した著書などの名義である「少年A」をもとにして表記する。 数か月にわたり、複数の小学生が被害を受け、2名が死亡し、3名が重軽傷を負った。通り魔的犯行や遺体の損壊が伴った点、特に被害者の頭部が「声明文」とともに中学校
木曾義昌 @0Dofh3BUEtzN4UL

@rootsy @1059kanri ワシはこの前、三木武夫元総理を見たのじゃが、 「誰か映画化しないかなぁ」 というぐらいの面白さじゃ。 #Wikipedia #三木武夫

2020-01-03 20:19:25
リンク Wikipedia 三木武夫 三木 武夫(みき たけお、1907年(明治40年)3月17日 - 1988年(昭和63年)11月14日)は、日本の政治家。 徳島県出身。内閣総理大臣(第66代)などを歴任した。衆議院議員当選19回、在職51年。称号及び栄典は、正二位大勲位、衆議院名誉議員など。 1907年(明治40年)3月17日、徳島県板野郡御所村(後の土成町、現在の阿波市)に農商人の家の長男として誕生。明治大学法学部在学中に遊学し、英米自由主義社会を肌で体感、また独伊ソなどの全体主義国家への反感も身を以って実感する。 明治大学卒業直後の 10 users 55
リンク Wikipedia 楠木正儀 楠木 正儀(くすのき まさのり)は、南北朝時代を代表する武将、公卿。楠木氏棟梁。正成三男。正行、正時の弟。子に正勝等。父・兄と並ぶ南北朝時代最高の名将で、南朝総大将として北朝から京を4度奪還。また、鑓(槍)を用いた戦術を初めて普及させ、兵站・調略・後詰といった戦略を重視し、日本の軍事史に大きな影響を与えた。一方、後村上天皇の治世下、和平派を主宰し、和平交渉の南朝代表を度々担当。後村上天皇とは初め反目するが、のち武士でありながら綸旨の奉者を務める等、無二の寵臣となった。しかし、次代、主戦派の長慶天皇との不和 2 users 1
じゃがぁ[ーBARー] @brau_jager150

@rootsy ベタですが「八甲田山雪中行軍遭難事故」もどうぞ…

2020-01-04 12:34:44
リンク Wikipedia 八甲田雪中行軍遭難事件 八甲田雪中行軍遭難事件(はっこうだせっちゅうこうぐんそうなんじけん)は、1902年(明治35年)1月に日本陸軍第8師団の歩兵第5連隊が青森市街から八甲田山の田代新湯に向かう雪中行軍の途中で遭難した事件。訓練への参加者210名中199名が死亡(うち6名は救出後死亡)するという日本の冬季軍事訓練における最も多くの死傷者が発生した事故であるとともに、近代の登山史における世界最大級の山岳遭難事故である。日本陸軍は1894年(明治27年)の日清戦争で冬季寒冷地での戦いに苦戦したため、さらなる厳寒地での戦いとなる対ロ 176
jun @atsushi_tweetin

@rootsy ドナー隊と、フランクリン遠征も忘れがたく。英語表記の翻訳ですが、匿名の誰かが丁寧に仕事して、恐ろしくも魅了されます。

2020-01-04 14:18:37