歴史系私論・目内沢田氏の存在について

南部八戸氏の近世史料に名前が出ており、戦国末期の津軽と南部の戦いにおいて大きな役割を担った目内沢田氏についての連ツイと思考メモです。
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

【目内沢田氏とは】 陸奥南部八戸氏の一族にして重臣・新田氏の庶流。15世紀後期以降、津軽黒石の目内沢田を所領にしたと考えられる。 戦国時代の動向は不明だが、天正18年の津軽為信による津軽制覇戦の最終段階において主家である八戸氏を裏切り、その敗北により糠部南部氏は津軽から駆逐される事に。

2019-10-09 21:41:16
帆船ハッカ @kotosakikotoko

目内沢田は天文頃の記録である津軽郡中名字にも名が載る地名で、津軽平野を横貫する浅瀬石川を北上した浪岡北畠氏領と浅瀬石千徳氏領の間に位置しており、周辺には飛内(富内)・馬場尻など、新田氏庶流・馬場政親の子孫が分布していた。この位置こそが、目内沢田氏の重要な要素だと勝手に思ってる。 pic.twitter.com/8C33fjFp4e

2019-12-05 22:41:19
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

何故この位置が重要か。 まず、存在はしたが正確な位置が不明な南部八戸氏の津軽領でないかと考えれるから。 八戸氏は室町期を通じて津軽において勢力を拡大し、相応の所領を持っていた。だが、室町時代後期にかけて八戸氏はその所領を縮小させ、津軽における領地はかなり不明確になっていた。

2019-12-05 22:41:19
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南北朝頃、八戸の南部信政の妻であり、工藤貞行の娘加伊寿御前は、父より二双子という土地の譲状を与えられている。二双子は上記飛内の十川を挟んだ隣である。この土地はさらに加伊寿御前の息子で次の八戸氏当主南部信光が継ぐ。既に南北朝頃からこの地が八戸氏の所領の一つだった事が分かる。

2019-12-05 22:45:55
帆船ハッカ @kotosakikotoko

で、馬場政親という人物は八戸政経(新田家から男子の途切れた八戸本家に入り、康正頃に蠣崎蔵人の乱を鎮圧した八戸氏当主)の庶兄で、馬場政親の子孫が津軽の地を名字の地として後世に伝わっている以上、康正かその後頃に彼が津軽に送り込まれ子孫が根を張ったと考えるのが順当かと思う。

2019-12-05 22:45:55
帆船ハッカ @kotosakikotoko

しかし、馬場政親子孫に関する記録は15世紀後半~16世紀後半の時期を見てもほぼ無い。津軽郡中名字にも地名は出てきても彼らの名前は出てこない。近世の遠野古事記に、馬場氏・目内沢田氏・飛内氏の名前があり、近世以降も八戸家中に馬場氏の係累が残っていた事は確かでも、中世の状況は分からない。

2019-12-05 22:49:47
帆船ハッカ @kotosakikotoko

(といっても、津軽郡中名字は浪岡・大光寺・大浦の津軽三大勢力(特に浪岡)を強調して、糠部南部氏の領地を意図的に無視してるのでその面でアテに出来ないんだけど。津軽郡中名字の写本のひとつではこの地域も浪岡領だと主張しているのだけれども、誰が領主をやってたとかは書かれず説明が雑だし)

2019-12-05 22:49:48
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天文17年、八戸家当主勝義が早世したことに伴い、分家の新田行政の息子である八戸政栄が若干数え5歳で八戸家に入り当主に就任した際、新田家家中の脇山氏・西村氏に加えて目内沢田氏と飛内氏がお供として八戸入りしている。目内沢田氏の数少ない動向だ。

2020-02-17 03:58:46
帆船ハッカ @kotosakikotoko

八戸家伝記には、政栄代の正月祝儀の席次について書いた『当代正月二日祝儀列坐之図』に、『新田ヨリ供ノ者同名一人 目内沢田内膳』という人物が出てくる。この人物が政栄当時の目内沢田氏当主であろう。彼(かもしくは年代的には息子か)は後に直義が遠野へ移封される際、目代として名前が出てくる。

2021-01-05 22:40:00
帆船ハッカ @kotosakikotoko

八戸氏の近世記録では津軽に所領を持っていた事が強調され、工藤勘解由村吉という代官が、天正18年の敗北により脱出した話が載せられる。 この工藤村吉の代官領として、この馬場氏子孫たちの領地かもしくはほど近い地域を支配したんじゃないか、というのが見通しとして作れると思ってるのね。

2019-12-05 22:53:47
帆船ハッカ @kotosakikotoko

この新田氏庶流が戦国後期まで在地していたとしたら、八戸氏の津軽領の一部と考えて差し支えないんじゃないかと考えるのね。 浪岡北畠氏がこの地域も支配下に置いていた可能性もあるけど、馬場氏子孫たちが浪岡の家臣団の中にいたという微兆もないのよねぇ。この辺は幾つか解釈できると思う。

2019-12-05 22:53:47
帆船ハッカ @kotosakikotoko

で、2点目のこの位置の重要性というのは、大浦氏による津軽制覇戦に関わってくる重要な要素になるから。 知ってる人は知っていると思うけれども、近世に編まれた南部正史と津軽正史では、この津軽為信による津軽征服の経緯がかなり相違している。凄くざっくり書くと、

2019-12-05 22:55:45
帆船ハッカ @kotosakikotoko

・津軽正史:元亀2年に決起し石川高信を敗死させ、天正4年に大光寺氏を、天正6年に浪岡北畠氏を滅ぼし、天正13年に残る外ヶ浜を征服して津軽統一を完了。 ・南部正史:天正16年(或10年)に大光寺光愛を追放して浪岡政信を暗殺、天正18年に決起して津軽を占領。

2019-12-05 22:55:45
帆船ハッカ @kotosakikotoko

が、現在の研究だとどちらの展開も基本的には否定されており、少なくとも天正17年に津軽氏が軍事行動をとっており、この時点で外ヶ浜の横内を占領しておらず、津軽を統一していない事が明らかで、さらに言うと、別の書状の年代比定次第では南津軽の大鰐すら占領していない事になっちゃうのよね。

2019-12-05 22:57:26
帆船ハッカ @kotosakikotoko

で、八戸氏の伝承はどうなってるかというと、近世南部宗家となった盛岡(三戸)南部氏の伝承とはまたちょっと細かい点が違う。はしょって書いちゃうと、天正18年に津軽為信が決起した時に津軽に派兵し戦ったものの、目内沢田弥右衛門が大浦方に寝返って後背を襲い、敗北するに至った、というもの。

2019-12-05 22:57:26
帆船ハッカ @kotosakikotoko

目内沢田氏が津軽在地の領主だったとしたら、この裏切りも『自領の保全』と考えれば説明がつくよね、と思うわけで。まあそれはともかく、天正17年時点で津軽の多くを支配下に収めていなかったとする最新研究と、八戸氏の伝承が親和的に考えられないかな、というのがひとつ。

2019-12-05 23:00:08
帆船ハッカ @kotosakikotoko

さらに言うと、天正6年に大浦氏が浪岡北畠氏を滅亡させた時に、大浦為信は竹鼻口という所から一部隊を侵攻させているのだけれども、竹鼻口はまさにこの馬場氏子孫領の真横に位置する。 津軽正史の浪岡攻めが正しかったとして、津軽における八戸氏領はどうなっていたのか、という疑問が出てくるわけね。

2019-12-05 23:00:09
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正6年の時点で無力化されるにしてもその経緯を書いていない、領主の帰順や追放すらも書かれていない。津軽正史は、八戸氏津軽領や細かな在地領主たちを書いてない。じゃあ彼らはどうなった? という疑問から様々な解釈が出来る『面白い』題材なわけですよ。

2019-12-05 23:04:18
帆船ハッカ @kotosakikotoko

じゃあ八戸氏の記録が正しかった(正しいかどうかは分からないけどひとまずおいておいて)として、裏切った目内沢田弥右衛門はどうなったのか、と言えば分らない。近世の津軽の記録にも名前は出てこないし、せいぜい遠野古事記など八戸氏の近世記録にちょろっと名前が出てくるだけ。

2019-12-05 23:04:18
帆船ハッカ @kotosakikotoko

目内沢田氏の戦国期における津軽在住を証明というか史料が無い限り、自分の話も与太空論の類なんだけど、どっかに史料転がってないかな(そもそもいつも与太空論しか喋ってないという)

2019-10-29 02:07:11
帆船ハッカ @kotosakikotoko

そういえば兄弟と言えば八戸政経って新田家の生まれで弟が4人に妹2人いるんだけど、新田本家を継いだ清継以外の3人の弟はそれぞれ別家を立てていて、これ譜代家臣団の充実時期だなってなる。

2019-10-06 00:37:18
帆船ハッカ @kotosakikotoko

次男政親は馬場・飛内・目内沢田の祖で、四男政勝は松岡・脇山の祖、五男政次は西村の祖。

2019-10-06 00:42:17
帆船ハッカ @kotosakikotoko

位置関係こんな感じ。新田政親が現黒石市のこの辺に送り込まれてそこから子孫が広がった形かな? おそらく津軽の八戸氏領の中核の一つじゃないかと。 pic.twitter.com/s2some0V3P

2019-10-06 23:31:49
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

新田氏庶流の黒石周辺への扶植を、15世紀半ばの津軽情勢と強引に結び付けて考えるなら、安東政季による津軽攻勢など、安東勢による津軽再奪還の動きが止まらない中で、動揺する津軽支配を再構築するために行われた施策の一環、と考えることも可能か。

2019-10-09 02:48:14
帆船ハッカ @kotosakikotoko

だが八戸は衰勢を止めることが出来ず、津軽支配の主導権は八戸氏の手を離れ、安東氏も奪還は成功することなく、現地の浪岡北畠・堤-大光寺(三戸)・大浦(久慈)・千徳(一戸)の各氏によって収斂していき、さらにその後は三戸石川なども加わり進んでいく――みたいな見取り図は出来るかしら。

2019-10-09 02:55:27