編集部イチオシ

歴史系雑語り・三戸南部氏の『権力のルート』と浪岡北畠氏

タイトル通り、戦国時代の三戸南部氏によるルートを通じた領域支配と、それに関わった? かもしれない浪岡北畠氏に関してだらだら話したツイートまとめ。ヤマ無しオチ無しイミ無し。
22
帆船ハッカ @kotosakikotoko

津軽交通路における要衝(水域なしとあり) 色んな解釈が出来るけど、各南部氏がいかに戦国期津軽を蚕食していたかと、浪岡北畠氏の存在感が光るのが見て取れる辺りが好き。 pic.twitter.com/Lkfe9Rxy5I

2019-09-30 12:09:44
拡大
拡大
帆船ハッカ @kotosakikotoko

そしていつ見てもうわっと来る奥羽山脈の分厚さ。これ越えて津軽経営しなきゃならないのほんと無理。現地勢力にぶん投げなきゃならなくなるのもむべなるかな。 pic.twitter.com/OyQTHLW70L

2019-09-30 12:19:04
拡大
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部郡中の領土は下北のむつ市から盛岡まで南北約174キロ・八戸から深浦まで東西132キロ、この広い領域をとにもかくにも維持しなきゃならんのだけれど正直稼げる平野が少ないのである。

2019-09-30 12:55:43
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部氏の津軽支配、地元有力領主たちの分治に任せつつ、石川城や藤崎城、高田城や横内城のような要所要所をがっちり押さえて首根っこ掴むスタイルなの結構好き。

2019-03-15 00:57:16
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あ、そうか、三戸南部氏による『交通・権力のルート』に浪岡北畠氏も参画していたと考えればめっちゃ自然なんだ。

2020-01-28 03:25:31
帆船ハッカ @kotosakikotoko

『三戸南部氏がここ(南津軽の出口たる石川)に津軽支配のあらたな本拠として一族の重鎮高信をおいた事は、「浜口」「七戸口」と称される北回りルート(三戸‐藤島‐七戸‐野辺地‐小湊‐堤ヶ浦・横内‐大光寺)と、「鹿角口」といわれる南回りのルート(三戸‐田子‐来満峠‐毛馬内‐比内北部‐石川)が合体(続

2018-03-09 01:22:16
帆船ハッカ @kotosakikotoko

した、南部領国を貫く交通・権力のルートができあがったことを意味しており、このルート上の諸城(藤島・堤ヶ浦・横内・大光寺・田子・石亀・毛馬内)への「三戸家中」配置とあいまって、戦国大名三戸南部氏の領国の成立をつげる出来事であった』(県史2 青森県の歴史)

2018-03-09 01:22:36
帆船ハッカ @kotosakikotoko

浪岡北畠に従っていたと主張する領地、富内・目内沢田・黒石(浅瀬石)荒屋(新谷)・広船(弘船)・乳井(福王殿)・水目内(三ツ目内)・唐牛なんかを繋げていくと、津軽平野の東に延びていて、津軽を縦貫してその流通を支配しようとする意志が見えるのよね。

2019-08-20 22:09:57
帆船ハッカ @kotosakikotoko

自RT>浪岡北畠氏による津軽縦貫ルート、南部氏の協力もあって維持し得るルートでもあるよね、っていう話なんだよね。ようは当時の糠部南部による津軽支配の一翼に浪岡北畠氏も主体的に関与することで、当地における立場を確保してたんじゃないかっていう話。

2020-01-28 03:34:21
帆船ハッカ @kotosakikotoko

一方で浪岡北畠氏は秋田安東氏や蝦夷地蠣崎氏との関係も深い一族なのは言うまでもなく。陸海双方のルートの要所を抑えて各氏にまたがり積極的にその流通を支配することで主導権を握り、その権力と権益を確保してきた――という見立てはありなんじゃなかろうか。

2020-01-28 03:39:17
帆船ハッカ @kotosakikotoko

特別講演 聖寿寺館跡の発掘調査成果から考える三戸南部氏の展開と戦国大名化 ndlonline.ndl.go.jp/#!/detail/R300… 布施先生こんなん書いてたんか読まなきゃ。

2019-07-01 01:00:19
帆船ハッカ @kotosakikotoko

昼に呟いた三戸南部氏と浪岡北畠氏の政治協力妄想がなかなかはかどって楽しい。安東との関係をわりとクローズアップされる浪岡北畠氏だけれども、この時期北奥地域の支配・安定の為の要素として三戸南部-浪岡ラインがあると想定するなら、色々語れることが増えるんだよねぇ確かに。

2019-07-01 23:33:52
帆船ハッカ @kotosakikotoko

浪岡城と聖寿寺館の陶磁器数量の推移が同じであり、1480年頃の三戸南部氏が、浪岡北畠氏を介して陶磁器を移入していたと想定してるけど、このルートに横内の大光寺氏(堤氏)は絡むのかしら? 微妙に時期がずれるんだけどねぇ(田子光康の堤浦・横内入部が1498年だし)

2019-07-01 15:19:42
帆船ハッカ @kotosakikotoko

論文だと、浪岡城と聖寿寺館の共通点として、陶磁器の増減パターンの相似以外にも、先に呟いた柱穴内礎石(地中に埋められた礎石)建物がこの二つのみで確認されている事、中世アイヌ文化遺物が発掘されている事が指摘されてて、この二つの間で文化交流があったと想定するのは可能だと思うんだよねぇ。

2019-07-01 23:36:13
帆船ハッカ @kotosakikotoko

中世アイヌ関連で先行の論文に即して考えるなら、この三戸南部-浪岡北畠ラインって、この二つの勢力の蝦夷に対する支配形態にも関わる話にも繋げられそうだよね。蝦夷人たちが一定の機能をもってその支配に関わっていたんじゃないか、とすら想像できるわけで(あくまで想像だけど)

2019-07-01 23:39:14
帆船ハッカ @kotosakikotoko

飛躍した話になるけど、15世紀末か~16世紀前期の三戸南部氏と浪岡北畠氏がこうした流通のみならず政治的に共同していた可能性はあるのかしら?

2019-07-01 16:04:31
帆船ハッカ @kotosakikotoko

この『権力の道』において、外縁に位置する八戸や九戸、それから岩手郡などとの連結はどう位置づけるべきなのかーって割と大きな問題だと思うけど、これといった解釈が思いつかない。

2018-06-22 23:48:59
帆船ハッカ @kotosakikotoko

八戸南部氏の退潮に伴い、いち早く糠部郡外にも及ぶ地域広域権力を構築することに成功したのは三戸南部氏で、彼らは鹿角・岩手・津軽などに勢力を広げ、糠部郡内においても三戸から五戸に至る広い地域を支配下におさめていたのが、南部家の『宗家』と成りえた理由じゃないかなぁ、と思っている。

2018-06-22 23:31:41
帆船ハッカ @kotosakikotoko

実のところを言えば一戸氏も一族を岩手・津軽・閉伊・鹿角などに広げているのだけれども、一戸宗家自身の勢力は割と小さめっていうネックがあるし、これら一族を有機的に結びつけて活動させるには少し弱いきらいがあったんじゃないかなぁと思う。

2018-06-22 23:31:41
帆船ハッカ @kotosakikotoko

山川の県史にある、三戸を中心とした北回りと南回りルートが合体した『南部領国を貫く交通・権力のルート』って三戸意外の郡中勢力を無視しては成立しえないものだけど、むしろこの権力ルートの中で三戸以外の他氏が三戸に足りない役割を補完しながら成立してたのが『南部郡中』なのかなぁ、とか。

2018-06-22 23:39:47
帆船ハッカ @kotosakikotoko

三戸と九戸の抗争、ひいては戦国期南部氏の活動は、この権力ルートの拡大や再構成を巡る争いである、という視点で見たら別の者が見えてくるかもしれないなぁ、 という、真に受けたら笑われる程度の超絶与太。

2018-06-22 23:43:14
帆船ハッカ @kotosakikotoko

三戸南部氏の発展は川筋押さえたのが大きいよね、とは思っている。馬淵川中流だけでなく、五戸川・奥入瀬川、浄法寺氏を通じて安比川。その辺が他の糠部諸氏とは頭一つ図抜けてる。

2017-10-02 22:09:09
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あとは陸路も、田子川から来満峠―鹿角、さらに津軽大鰐を経て、奥大道の入り口である石川を押さえ、石川から三戸庶流たる大光寺氏―堤氏を通じて陸奥湾へのルートを不完全ながらも通し、南にも安比川から岩手郡に抜けるルートを構築している辺り、三戸南部しっかりと交通路押さえてるなぁ感。

2017-10-02 22:14:15
帆船ハッカ @kotosakikotoko

岩手郡に影響力を行使していた一戸との提携も、この辺の拡大の為になされたんじゃないかなぁ、とはさすがに妄想。

2017-10-02 22:17:10
帆船ハッカ @kotosakikotoko

前ちょっとざっくり書いた永禄前期頃の三戸南部氏勢力圏。オレンジは遠隔地の諸豪族地域と思ってくれればいい。 pic.twitter.com/dlTEZhXLDh

2018-03-09 01:00:13
拡大
拡大
拡大
残りを読む(14)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?