歴史系雑語り 天正10年から天正8~9年へ 南部信直の家督相続時期と周辺情勢

現在の研究では、南部信直の家督相続が天正10年ではなく、天正8~9年説が有力になってるよ、っていう話です。
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帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部信直天正9年相続説が八戸市史に載ったのは、ようやく説を載せられるくらいには研究が進んだ証拠、と見ていいんだろうか。

2015-06-30 22:17:54
帆船ハッカ @kotosakikotoko

これまで南部信直の家督相続時期として通説だったのは天正10年(1582)。この年に南部晴政が死去し、晴政の実子・南部晴継が家督を継ぐも、疱瘡により半年で死去、その後家督相続会議(荒れた)を経て南部信直が家督を継いだ、という筋。この晴継は一説として晴政の葬儀の際に暗殺された、とする。

2020-02-27 23:01:08
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部信直の天正10年家督相続説は祐清私記が出典で、さらに言えば南部晴継暗殺説が同書に載っていることから、両者はセットになっている説でもある。ただ、この年に妥当性がある、というだけで裏付けがある説ではなかった、というのは押さえておいたほうがいい。

2020-02-27 22:53:02
帆船ハッカ @kotosakikotoko

そして現在では研究の進展でこの祐清私記の説は採用されなくなっている。で、注目されているのが天正9年。

2020-02-27 22:53:03
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部家にとって天正9年とは、7月に南部家を構成する家の一つ、一戸家の惣領・一戸政連と息子出羽が、政連の兄弟平館信濃によって暗殺されている。 三戸を宗主とした『戸の家』と呼ばれる大家の連合体である南部家にとり、そのひとつである一戸宗家の滅亡は政治バランスを大きく変える出来事。

2018-02-19 22:02:29
帆船ハッカ @kotosakikotoko

同じく7月、戸の家である八戸家において、当主政栄の叔父(前当主勝義の弟)守頓を田名部に幽閉し、翌年殺害している。守頓は八戸家における九戸派であり、政栄はこれを粛清した。 一戸政連についても九戸の関与が考えられており、この時期、九戸による政治的な動きが激化した可能性が指摘できる。

2018-02-19 22:08:47
帆船ハッカ @kotosakikotoko

で、面白いのは、一戸政連暗殺を記述した奥南旧指録も、守頓の粛清を記した八戸家伝記も、これらの事件以前に南部信直が三戸の家督を相続していた、としている事。 定説では、南部信直の家督相続は天正10年なのだけれども、最近だと天正9年説が有力になってきている。

2018-02-19 22:12:19
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部信直天正9年説の根拠として最近はデーリー東北の記事で紹介された「遷宮覚」という櫛引八幡宮の史料がある。これには、天正9年に南部信直の側近・木村杢助が信直の名代として櫛引八幡宮を造営したとする記述がある。

2020-01-29 01:42:00
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部信直の家督相続が天正9年だったとして、何月に行われたのかは定かじゃない。ただ一戸政連暗殺事件では首謀者平館信濃の追放、八戸守頓の幽閉事件は首謀者守頓の粛清によって幕が下りた、という事は、この事件が九戸による活動だった場合、彼らは政治目的を果たせなかったという事は言えると思う。

2018-02-19 22:26:33
帆船ハッカ @kotosakikotoko

元々天正10年説は、三戸南部の家督騒動を詳しく描いた祐清私記が天正10年説だから、という理由で採用されてて、確たる根拠は無かったりする。で、他の史料との整合を付けるなら、天正9年の方が自然、て形。 南部信直が家督を確実に相続してるのは天正10年11月。家臣小笠原助三郎へ偏諱を与えてる。

2018-02-19 22:19:19
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部信直の家督相続の天正10年説と天正9年説では、そもそも依拠する史料が違うねん。加えて状況的にも疑問視されたから、9年説では南部晴継暗殺説はほぼ採用されないねん。

2019-11-20 16:49:45
帆船ハッカ @kotosakikotoko

一戸政連・出羽親子の暗殺や八戸守頓の幽閉など、九戸政実の関与が疑われる一連の出来事がピックアップされるようになったのも、祐清私記の史料価値が疑われるようになり、他の資料の活用が活発になったからに他ならないのよねぇ。

2019-11-20 16:56:03
帆船ハッカ @kotosakikotoko

個人的には、南部信直の家督相続(およびそれに続くゴタゴタ)は天正9年7月以前、とした方が流れ的には自然かと思う。

2018-02-19 22:47:11
帆船ハッカ @kotosakikotoko

一戸家って三戸、というよりも石川高信・信直親子にとっての同盟相手だった形跡があって、これが潰れたのって南部信直にとってはかなりの痛手で、もし一戸宗家が残ったまま歴史が進展してたら、もうちょっと違う情勢が出来ていたと思うのね。多分信直側有利で。

2018-02-19 23:11:01
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正9年で気になってるのが、安東による鹿角出兵(新羅之記録)で、この記述はかなり短くてあまり取り上げられないけど、近年の研究では、南部信直の家督相続が天正10年から天正8~9年だと考えられるようになっていて、ようは家督相続で混乱する南部に対する攻勢と考えられないかなぁって。

2019-11-19 23:21:47
帆船ハッカ @kotosakikotoko

この天正9年の鹿角合戦が存在したなら、じゃあすぐ近隣の浅利氏の反乱はこの侵攻に致命的な意味を持つよねっていう。戦続けられないやん。 少なくとも天正11年には安東と浅利が和睦している(その和睦の席で浅利義正(勝頼)が暗殺されている)なら、その直前までは戦ってたって事になるよねっていう。

2019-11-19 23:26:46
帆船ハッカ @kotosakikotoko

あ、そうだ、これも足しておこう。 南部信直・家督相続までの時系列について、各史料記述(メモ) privatter.net/p/351124

2020-02-28 22:04:51