清少納言は実は陰キャ?『枕草子』と熊本との意外な関係

清少納言はパリピ、紫式部は陰キャとよく言われますが、実はそんなことはない。清少納言も悩みを抱えた女性でした。そんな彼女を救ったのは・・・後半は熊本との意外な関係が明らかに
紫式部 清少納言 枕草子 平安時代 歴史 古典 学問
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一条 @ichijou5759
清少納言はパリピ、紫式部は陰キャって言われるが清少納言こそ筋金入りの陰キャだよ。宮仕えしても全然仕事に慣れなくて泣きながら自室に引きこもってばかり。そんな清少納言に手ずから絵物語を一緒に読んであげたりしてくれたのが仕えてる中宮定子。このとき清少納言29歳、定子18歳。
一条 @ichijou5759
清少納言の父、清原元輔は和歌の才能で官位を得た叩き上げだが、彼女はそんな父に比べられることを嫌った、というか苦しんだ。枕草子には彼女が漢詩の知識を披露することが多いが、和歌を詠むのは徹底して拒んだという。
一条 @ichijou5759
そんな彼女を愛し、文学の才能を見いだしたのが中宮定子。嫁いだ一条天皇より3歳年上の定子は才気活発で後宮を文学サロンにした。現在思い浮かべる、夜に屋敷に集まって和歌や管弦を楽しむ「平安貴族」のイメージは、この頃できあがったと言われている。
一条 @ichijou5759
だが、定子の父、道隆が亡くなり、叔父の道長が勢力を拡大、同時に兄である伊周が素行不良から捕縛される。心労のあまり定子は出家、だが彼女は一条天皇の子どもを身ごもっていた。子どもかわいさに一条天皇は定子を宮中に迎え入れるが、その頃にはもう道長の娘、彰子の入内が秒読みとなっていた
一条 @ichijou5759
『枕草子』は日々の徒然を思いのままに描いたものではなく、「定子に見せるため」という明確な目的があって書かれた。紫式部による清少納言、『枕草子』批判はここにある。実際にあった悩みや苦しみを一切書かずに美しいことだけを書いていると言う。だがそれは清少納言の意図したことであった。
一条 @ichijou5759
出家したまま皇后の地位に居ること、道長からの圧力など、様々な心労が重なり、定子は24歳の若さで亡くなる。晩年は乳母にさえ見限られる没落ぶりだったという。そんな定子に受けた恩を忘れず、その心と魂を慰めるために宮中の美しい思い出を綴ったのが清少納言の『枕草子』と言われる
一条 @ichijou5759
後宮の女房の主な仕事は受付だが、男子禁制の中国とは違い平安時代の後宮は男性が普通に出入りしていたため、女性の受付はエロ親父のセクハラの格好の的であった。その心労たるやいかばかりかと想像を絶するものがあっただろう
一条 @ichijou5759
紫式部は醍醐天皇、朱雀天皇の時代に右大臣だった藤原定方の曾孫で、世が世なら中宮も狙える家柄だったのに今では落ちぶれて女房仕え・・・というコンプレックスを抱えていた。
一条 @ichijou5759
やべえな、やっぱ清少納言と定子と紫式部の三角関係はエモが過ぎる。エモの青天井を見た
一条 @ichijou5759
姫のためなら死ねる (1) (バンブーコミックス WINセレクション) くずしろ amazon.co.jp/dp/B00IOGFPBG/… @amazonJPさんから これですか、その清少納言のエモみが詰まったエモの玉手箱と名高い書物は。
一条 @ichijou5759
ちなみに清少納言のお父さんの清原元輔は熊本で亡くなってます。 kakutaxi.com/%E6%B8%85%E5%8… pic.twitter.com/BPKXadPPqa
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一条 @ichijou5759
え?清少納言のお父さんの清原元輔を祀ってる清原神社、熊本駅のめっちゃ近くじゃん? pic.twitter.com/wW5uaRHa6F
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一条 @ichijou5759
清少納言の父、清原元輔は寛和2年(986年)から正歴元年(990年)まで肥後を治めていて、都に帰ることなく熊本で生涯を終えました。その霊を慰めるためにできたのが清原神社だそうです。
一条 @ichijou5759
清少納言大好きなみんな、熊本に来てくれよな

コメント

hudebako @bakojuhi777 11日前
冲方丁の「はなとゆめ」は良いぞ
カブサカモト @SakamotoTosu 10日前
地図を見て、あれ?その場所は北岡神社では? と思ったら向かいにあるのね。 近所なのに知らなかった。
ウメ(モッコス) @ume_86 10日前
うえっ…清原神社知ってる‼️
Gothicgaze @Gothicgaze 10日前
姫のためなら死ねる読んでるけど、あのギャグ路線からここに書かれるような晩年に向かうと思うとぐっとくる
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