- ttt_ceinture
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"フーコーの最後の仕事を一言で要約すれば、それは要するに「ダイエット」の研究であった。実際、『快楽の活用』の第二章に「ダイエット」Diététiqueという章が存在する。言うまでもなくこのダイエットは本来の意味でのそれであり、通俗的に使われる痩身のための食餌療法ではない。"
2011-06-03 00:56:55"(…)養生術、或いは身養生術、さらには節制術とでも訳される言葉である。要するに、食餌、運動、休息、性活動等々を含めた身体管理に関する節制と倫理を意味する。フーコーの仕事は栄養術=身体管理を巡る研究へと向かっていたわけである。"
2011-06-03 00:57:07"すでにここで、フーコーは最後まで、意識的にしろそうでないにしろニーチェに忠実だったことがわかる。(...)主題の選択においてフーコーはニーチェに忠実であり(…)古代ギリシアを選んだ点においてではなく「ダイエット」を問題化しようとした点においてであり(…)。"
2011-06-03 00:59:42禿同。 RT @ttt_ceinture: "//フーコーは最後まで、//ニーチェに忠実だったことがわかる。(...)主題の選択においてフーコーはニーチェに忠実であり(…)古代ギリシアを選んだ点においてではなく「ダイエット」を問題化しようとした点においてであり(…)。"
2011-06-03 01:06:37このテキスト、ニーチェ『この人を見よ』第二章の言及を挟んで、ルクレティウス『物の本質について』とフーコーの邂逅を考えるといった展開になってるな。
2011-06-03 01:02:23丹生谷は、しかるべきかたちで継承され、読み継がれてほしい。私がなんとなく佐々木中を嫌ってるのは、めっきり執筆が減った丹生谷の後釜を狙う劣化丹生谷に見えるといった気分もあるのだった。
2011-06-03 01:14:49佐々木=劣化丹生谷説、というのは人が同意するのかよくわからないが、佐々木を見ていると「丹生谷はもっと優秀だった...」とか不意に言いたくなるときがあるんだよな…
2011-06-03 01:18:06@ttt_ceinture 説得させられるものがあったのでRTしたまでです。でも、今や丹生谷を知る若者は少なそうだね、残念ながら。
2011-06-03 01:25:36@waschmaschine 直感的に、なんとなく符合すると思うのですよ。しかしポジションの類比ではなく実際に対照するとうまく言いづらい感じ。デリダから距離があるのは共通してるけども。
2011-06-03 01:28:29@ttt_ceinture 直感的にはよくわかります。論証するのはなかなか大変そうだけど。真でも善でもなく美に訴えかける、ってあたりかな。まあ、そんな人いっぱいいるきもするけどw
2011-06-03 01:32:53新著出て欲しいっす RT @hubbled: 丹生谷さんもっと書いてほしいっす RT ttt_ceinture: 丹生谷は、しかるべきかたちで継承され、読み継がれてほしい。
2011-06-03 01:28:48あっ そういえばRTした記憶が…<新著『敗走者たちの生と真理』 RT @sosodesumus: ニブヤさんの新著9月に出るみたいですよ。http://bit.ly/mo36Uq
2011-06-03 01:34:42丹生谷の閃光のような輝きを、どう評すればいいのかよくわからない。90年代に、丹生谷に惹かれてドゥルーズを、フーコーを読み始めた人は一定数いたんだろうと思うが、かといって紹介者と言うのもおかしい。批評と距離をおいていたけども、丹生谷が「文芸評論家」だったという人はいたはずだと思う。
2011-06-03 02:34:45放言で止まっている記述、進展しなかった議論、だしぬけに語られたアイデア、語り口の上演性、など悪く言うことはいくらでも言えるのだろうが、それでは覆しにくく、かといって紹介者としての語り部というふうにも回収しがたい煌めきを、どう言えばいいんだろう。「作家」っぽい人だった。
2011-06-03 02:36:35丹生谷のようなかたちでのドゥルーズの援用の仕方は、ドゥルーズ研究の進展とともに、今となってはドゥルーズ紹介の過渡的段階の一形態として回収される可能性もあるし、研究者が丹生谷のような語り方から意識的に距離を取っているのはあるのだろうけど、そういう位置づけだと消えてしまう面がある。
2011-06-03 02:42:21「批評とは〇〇である」といった提示や、年代記的な文芸批評史を語って自ら位置づけること、批評家との対立や論争といった場面を作らなかった人は、「批評家」として刻印されにくく、「仏文学者(ただし研究論文をあまり書かなかった人)」といったラベリングで済まされやすくなってしまうが、
2011-06-03 02:45:38丹生谷の時ならぬ雷撃の矢のような存在は、(どれほど孤独や唐突さを自ら文章に凝らしていたにせよ、そのような側面を差し引いても)どうにも年代記的な位置づけを拒む不思議な読み手としての語り手であって、あけすけに作品の細部について好悪を語る素振りも、不思議と嫌味や趣味として回収しがたい。
2011-06-03 02:49:00文章を読んだ経験は、追憶と相性がよく、不穏なものの到来のような記憶として残っているのだが、それは単に回顧される美しい思い出というよりは、丹生谷の文章に、どこから出現しているのかよくわからない側面が潜んでいるからだと思う。
2011-06-03 02:53:22