かつて日本の「本初子午線」は京都にあった?

かつて日本の「本初子午線」が京都に置かれた時代がありました。これは、地図作製と暦作成の歴史が深く関わっています。
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永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

新訂万国全図 - 国立国会図書館デジタルコレクション dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid… >文化4年(1807)、幕命を受けた天文方高橋景保が、天文学者間重富や通辞馬場佐十郎の協力を得て完成した図 >間宮林蔵の探検(1809)の成果が生かされており、内容の新鮮さにおいて西洋製地図に比肩する傑作 pic.twitter.com/ZYto6CTHW2

2020-01-09 00:51:24
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永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

左上には、京都を中心とする半球図が描かれている。長久保赤水、森幸安、伊能忠敬といったそれまでの地図製作者は京都を中心に地図を描いており、景保もそれに倣ったと見られる。 pic.twitter.com/CIf51RwXkc

2020-01-09 00:55:20
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M.小林 @oigawa2

江戸時代の地図は京都を本初子午線にするものが多い。 京都の天文観測所が経度0度線の場所なんだがそういえば測量の聖地なのに行ったことないな。

2020-01-09 01:28:25
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

天文観測・暦作成の歴史と京都について連ツイ。近世の京都において天文観測を担っていたのは、暦作成と天文観測を家職とする土御門家である。土御門家は平安中期に陰陽頭を務めた安倍晴明に連なる家で、現在の梅小路付近の西中町・東中町一帯に屋敷を構えていた。→ (画像は地理院地図より) pic.twitter.com/Ozz2rfOk41

2020-01-09 01:51:51
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永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

→貞享元年(1684)、渋川春海によって貞享の改暦が行われ、春海は幕府の初代天文方に就任した。以降、改暦の仕事は土御門家から天文方に移ることになった。しかし、その後の宝暦暦作成においては、権力闘争の結果、土御門家が改暦作業を担った。しかし、ここで事件が起きる。→

2020-01-09 01:52:40
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

→土御門家が作った宝暦暦が、日蝕の予測を外してしまったのだ。宝暦13年(1753)9月に日蝕が起こるが、宝暦暦にはこれは記載されておらず、さらに都合の悪いことに何人かのアマチュアがこれを予測していた。これで土御門家の権威は失墜。→

2020-01-09 01:56:02
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

→ちなみに、宝暦暦作成の際に土御門家が観測を行っていたのが、冒頭で示した梅小路の屋敷。現在その近くの円光寺には、当時の当主土御門泰邦が用いたとされる渾天儀の台石が残っている。 日本の測量史 江戸天文 uenishi.on.coocan.jp/j124edotenmon.… pic.twitter.com/BgNo5T6btj

2020-01-09 02:00:19
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永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

→先ほどツイートした京都改暦所は、宝暦暦の後の改暦事業で用いられたもの。伊能図において「中度」と記載される子午線は、この改暦所を基準としている。ただし、中途段階では江戸に経度の起点が置かれた絵図も存在している(京都が測量範囲に含まれていなかったため)。→ twitter.com/Naga_Kyoto/sta…

2020-01-09 02:04:48
永太郎(ながたろう) @Naga_Kyoto

中京区西月光町にある月光稲荷神社。ここ西月光町には、寛政年間における改暦事業を担った京都改暦所が存在した。稲荷神社はその屋内社として建立されたのが始まり。京都改暦所は寛政10年に廃止され、跡地は西三条台村の村民に払い下げられた。 pic.twitter.com/zNvIrbsABr

2020-01-09 01:45:16
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

→伊能忠敬は京都を何度か訪れているが、決まって若狭屋太郎兵衛の屋敷(現中京区神泉苑町)を宿所とした。最初の訪問である5次測量後には、その成果として「近畿中図」が作られているが、ここではじめて京都に「中度」線が引かれた。以後、伊能図は京都に標準子午線を置いて描かれるようになった。→

2020-01-09 02:06:51
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

→なぜ改暦の中心は江戸に移ったにも関わらず、「中度」線は京都に引かれたのか。従来の地図慣例に則ったため、土御門家に配慮したためなど様々な説が挙げられるが、吉田正人氏は、むしろ地図作成上の合理的理由によるものではないかという説を述べている。すなわち、→

2020-01-09 02:09:50
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

→伊能図はサンソン図法に似た独自の図法を用いて子午線を引いたが、この図法では、日本の中心部に標準子午線を持ってこなければ、東西の端の歪みが大きくなってしまう。それゆえ、江戸よりも中心に近い京都が標準子午線の位置として選ばれた、これが吉田氏の推論である。→

2020-01-09 02:11:07
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

参考:吉田正人(2000)「江戸・明治期の標準子午線の変遷から:伊能忠敬はなぜ京都標準子午線を用いたか?」伊能忠敬研究 22, 24-28 頁 inoh-ken.org/kaiho/22.pdf

2020-01-09 02:11:29
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

参考: ①京都に子午線があった時代 | 京都府立京都学・歴彩館『京の記憶アーカイブ』 archives.kyoto.jp/?introduction=… ②星埜由尚 監修『伊能忠敬:歩いて日本地図をつくった男』別冊太陽, 2018年

2020-01-09 02:15:12
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

「標準子午線」という用語は、すべて「本初子午線」とするのが適切ではないかという指摘をいただきました。該当箇所については適宜読み替えていただければと思います。失礼いたしました。

2020-01-09 02:38:56
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

→伊能図は明治以降も利用されたが、京都の「本初子午線」は慶応3年の「官板実測日本地図」を最後に姿を消す。江戸中ごろまで地図上の中心と見なされていた京都だが、寛政以降改暦事業は江戸へ、そして明治以降は標準時子午線が明石に置かれ、京都は中心としての役目を終えることとなった。(完)

2020-01-09 02:42:15
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

→先日の連ツイに追加。京都改暦所が設けられた西三条の少し北には、現在「京都地方気象台」が存在する。「気象台」という電柱地名もあり。江戸時代の「天文ダイ」との結びつきを感じたが、どうやら偶然の一致だったようだ。 twitter.com/Naga_Kyoto/sta…

2020-01-09 19:24:54
永太郎(ながたろう) @Naga_Kyoto

西大路御池の近くで見つけた電柱地名「気象台」。近くにある京都地方気象台を指している。幕末期の京都を記した「京都御絵図細見大成」には既に「天文ダイ」の文字が見えるがこれは気象台の前身なのだろうか。 #電柱地名 pic.twitter.com/MrX6VxnWBw

2017-07-03 15:31:53
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

京都地方気象台は、明治13年に「観象台」として京都御苑内に設置されたことを起源とする。現在地に移転したのは大正2年のこと。設置を決定した槇村正直・明石博高は京都の近代史でよく出てくる人物で、明治初期の勧業政策を推進した。 京都地方気象台の歴史 jma-net.go.jp/kyoto/history.… pic.twitter.com/u0J1DkA8aJ

2020-01-09 19:30:33
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若井朝彥 @t_wakawi

@Naga_Kyoto 2008年に伊能の中図を九州国博でみて、あっ京都に子午線が、と驚きましたが、しげしげとその図を見ると、たしかに日本を二つ折りにするには、京都しかない! と確信したのでした。 ところで、三条改暦所がどうしてそこにあるのか、ということは2006年に考えてみて、私的には一定の・・・ (続く)

2020-01-09 21:07:22
若井朝彥 @t_wakawi

@Naga_Kyoto 私的には一定の結論が、(普通の京都市の地図を見ることによって)導き出されたのでしたが、ここまで書きましたら、ながたろうさんにも私のその見当がおわかりになるのではと思うのですが、いかがでしょうか。

2020-01-09 21:12:12
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

@t_wakawi うーん、「月光」という字があったからでしょうか。明るい市街地からは少し距離があり、一方で御土居の内側かつ三条から伸びる嵯峨道があったので適度に行きやすかった、あたりが理由なのかなと思いました。

2020-01-09 22:04:20
若井朝彥 @t_wakawi

@Naga_Kyoto わたしの考える答えを書かせてください。 月光町(おじゃる丸ではない)から真東の東山のピークまでの距離と西山までの距離が同じなんです。 もとから千本通の位置がそうだからといえばそうなんですが、このことを知っていたので中図の子午線の意味がすぐ分かりました。(紀要投稿も検討しました)

2020-01-09 23:02:36
若井朝彥 @t_wakawi

@Naga_Kyoto 字数の関係で後になりましたが、距離実測をする際、東西の三条道が有利であるのは、おっしゃるとおりだと思います。さすが! 土御門さんの観測位置もそのほぼ真南の、京都の中点にあるのは、納得できるところですが、こちらは黄道以外にも天変観測も必要で、四方に開けたところがよかったのでしょう。

2020-01-09 23:09:27
永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

@t_wakawi なるほど!確かにこれは観測には都合がよさそうですね。平安京は船岡山・吉田山・双ヶ岡を基準に造られたなんて話も聞いたことがありますが、やはり観測にはピークとの位置関係が大事なんですね。 pic.twitter.com/qvMs2FvEFb

2020-01-09 23:20:39
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永太郎(ながたろう)/重永瞬 @Naga_Kyoto

@t_wakawi あ、違いますね、勘違いしてました…笑 こういうことでしょうか。 pic.twitter.com/HzJfgxImF1

2020-01-09 23:22:47
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若井朝彥 @t_wakawi

@Naga_Kyoto そうなんです。捕捉しますと、図のように東西のピークの高さもほぼ同じ。 夏至の日の出日の入りを観察するには比叡愛宕は邪魔なんですが、この位置からでしたら、六分儀なんか使わなくても、ほとんど直観で黄道が読めるほど理想的。 陰暦に必要なのは新月観測。その究極が日食観測。予測よりも観測。

2020-01-09 23:59:41