議論のあるべき姿と差別に関する一考察

@ishtaristによる,議論のあるべき姿と差別に関する一考察.
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馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
議論っていうのは、喧嘩や攻撃じゃなくて、お互い「自分が間違ってるかもしれない」という前提で、違う意見の人と話し合って、良いところを取り入れあうことで、お互いに成長していけるような、そういう生産的な人間関係を作るコミュニケーションの技術なんだ。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
だから、どっちが負けたとか、どっちが正しいとか、そういうことは、議論ではどうでもいいこと。それぞれが、その対話の中で、なにを得ていけるのか、それが大切なんだ。
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江原由美子『フェミニズムと権力作用』再読。うん、彼女がフェミニズムにかんする問題意識は同感だし、議論も大枠としては同意。ただ、やっぱり、フェミニズムの内部対立を、男性の側、とまでは言えなくても、匿名の権力・社会構造へと帰責する傾向がある。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
つまり、フェミニズムが内部対立するのは、権力の罠によって言説空間がゆがめられているからだ、と。まあ、個人に責任があるかのように書くと、またフェミニズム内部で余計な反発を招くからかもしれないけど・・・。でも、それよりむしろ、これは社会学理論の限界だろうな。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
もちろん、僕が江原さんを取り上げて、その議論のもつ傾向性に対して批判的なのは、僕が彼女を尊敬しており、きちんと取り組む価値があるからだと思っているからなのだけど。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
議論においては、お互いの考えを批判的に検討することによって自分を高めようとする。だからこそ、格闘技と同様に、相手を傷つけないために、一定のルールが必要なんだと思う。ボクシングでグローブをつけるように、議論では、相手の個人的な心理や背景はとやかく言わないというルールが要る。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
普通、生産的な議論をする人の間では、相手を傷つけないために、そのような、決して人格批判を行わないというルールを暗黙の前提にしている。論点が相手の生き方や信念に直結するようなことでも、それを「相手個人の欠点」としてではなく、理論的に、その見解の弱点を提示するにとどめる。
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その一般化された議論から、自分の生き方の問題として、なにを得て、自分のなにを変えていくかは、その人それぞれの問題として相手にゆだねる、それが議論の善さなんだと思う。もう一度言えば、議論とは、素手で殴り合って相手を傷つけることを避けるための、コミュニケーション技術なんだろう。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
もうちょっとだけ踏み込んで言わせてもらえば、議論において、相手の心理を勝手に勘ぐって批判したり晒し者にしたり、そういう一線を超えてしまっている人が多いから、それはやめてほしいと僕は言ってるのです。公然と他人を侮蔑することは、自分を貶めるだけですから。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
僕から言わせれば、江原由美子さんでさえ、そこちょっと踏み外してる気がするんだよな・・・。研究者なら、テクストから直接読み取れることだけを批判しようよ、と思うんだけど・・・。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
一般論だけど、自分の公正性を議論の相手に主張したいのであれば、当の相手と公正に接して議論しているということを身をもって示さなければ、逆効果だろうと思う。相手と、それと、それを見ているたくさんの人たちにとって。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
大切なのは、個人的な主観や直観を、言葉を尽くして、論理化して他人に伝えていくプロセスだと思う。もちろん、すべてのことでそんなことする必要はないけど。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
世の中にはいろいろな差別があるけれど、一般的に差別とはどういうことなのか、ちょっと考えてみました。差別のメタ理論ですね。さしあたり、僕は差別においては、二つの特徴があると考えました。理論的用語と日常用語の二つの言葉をまぜこぜにして話したいと思います。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
差別の特徴 ①他者を固定化された認知カテゴリーで把握すること。②他者を自分よりも劣位だとみなし、それゆえ自分や自分と対等のものに対しては許さない形において、その相手に対する暴力的行為(教化も含む)を正当化すること。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
わかりやすく言い直せばこういうこと。 ①相手に対する決めつけ。「おまえは女性だから頭が悪い」「京大生だから頭が固いに違いない」「朝鮮人だから卑屈だ」「おまえは男だから女を見下してるに違いない」。もちろん、京大生で頭固い人はいるだろうし、女性を見下している男もいる。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
このリストはどこまでも長くできる。「おまえはフェミニストだから男を憎んでるんだろ」とか、「おまえが加害者に決まってるんだから」とか。ところで、一般的に言えば、属性とその人の特徴は、直接の因果関係はないし、ある程度の相関関係はあるかもしれないけど(女性の方がIQが平均して高いとか)
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
百歩譲っても、例外はいくらでもある。要するに、どんな属性の人でも、人それぞれだということ。ところが、そのような色眼鏡で相手に見られると、自分が一人の人間として接されることがなくなる。なにを言っても「加害者が言うことは信用できない」とか言われて、耳を塞がれてしまう。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
大切なことは、これが認知的カテゴリーだということだ。つまり、「あいつは売春婦だから汚い」とか思っているのは、誰でもなく、自分であるということ。偏見というのは確かに社会的現象だけれど、それを担っているのは一人一人の人間であって、取り払うのはその人個人でしかありえない。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
つまり、偏見は、自分の認知枠組みでしかないものを、客観的事実とか「世間の常識」とか共同主観的カテゴリーであると誤って考えることから生まれ、かつその信念によって強固になる。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
ともあれ、「偏見」だけで差別と言えるかどうかは疑問の余地がある。たとえば、「彼は東大教授だから彼が言うことは全部正しいんだ」というのは、もちろん偏見であって、相手を見下すのと同じぐらい有害だけれど、それはふつう差別とは言わない。差別は、基本的には、相手を自分より劣位に置くから。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
そこで②の論点にうつるわけだけれど、やはり、そこでの問題の本質は非対称性ではないかと思うわけです。つまり、相手がこれこれだから自分より劣っている。さらに、だから彼は攻撃されて当然だ、ということ。逆に言えば、自分はそういう属性をもっていないから、そのように扱われるのは不当であると。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
「相手はーだから、攻撃されて当然だ」というのは、よく聞く言葉ですよね。そう、イジメを正当化する論理です。じゃあ、差別とはイジメのことなのか?「あいつは空気を読めないから叩かれて当然だ」というのは、イジメだけど、それを「差別」と言えるかどうかは微妙です。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
というのは、「空気が読めない」というのは、むしろ相手の性格や行動の特徴であって、女性とか部落民とかいう相手の属性ではないから。(もちろん、僕はここでイジメを正当化してる訳じゃないです)。それは普通、差別とは言わない。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
じゃあ、差別って、どういうことなのだろうか。僕の考えはこうです。つまり「偏見」×「イジメ」=「差別」なんだと。認知カテゴリーに固着することは偏見ですが、それだけでは差別とは言えない。相手を従属させ非対称に扱うことはイジメですが、それも差別ではない。その両者の複合体が差別だと。
馬の眼🐴@技能実習制度 廃絶運動なう @ishtarist
もっと簡単に言えば、偏見と虐めの二つがが同時に満たされることが「差別」とみなす必要十分条件だろう、という感じですね。まあ、そう「差別」を定義しておけば、割と実態に即しているだろうし、差別というものがどういうものかを考えるときには便利なんじゃないかと思うわけです。
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