教育実践・教科教育・教育学・教育社会学に対する(/における)ビデオデータセッション&エスノメソドロジー的ビデオ分析の意義と現状:その2
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@igamoto 撮影TIPSはさしあたり私が欲していた情報でした。勉強になります。その前段の教育実践/教科教育法とEMの意義についてのお話も大変面白い(というか私が教育実践を対象とするEM者に語ってほしいと思っていた)論点を網羅していて、ぜひ続きをと思うのですが取り急ぎ御礼まで
2011-06-18 14:28:12@igamoto そうだ、ひとつ大前提をお話するのを忘れていました。私には今やろうとしているこの作業を研究として発表したいという欲望はほとんどありません。そうでなく「自分たちがやっていることは何なのか、自分たちの実践の言葉以外のもので把握したい」という教師の渇望に応答したいのです
2011-06-18 14:42:12@igamoto しかし、その目的のためにも、研究として耐えうる水準としては何が求められ、現在の研究水準であれば何をなしうるのか/なしえないのか、なしうるものはいかにすれば十全になせるのか、ということを可能な限り正確に知りたいのです。その意味でもTIPSの後半は示唆深いものでした
2011-06-18 14:48:59@igamoto いやむしろこう言うべきでした。「自分たちがやっていることは何なのか、自分たちの実践の言葉以外のもので把握したい」という教師の渇望に応答するためには、研究者共同体で語るとき以上に「それ(実践/を記述する実践)が何なのか」を十全に理解できていないといけないだろう、と
2011-06-18 14:57:55@igamoto 場面は違いますが先週の成城でのデータセッションを思い出しました。実践者がぼんやりとながらもわかっていたことをEMが言葉を与えることによって教育の改善が期待できる、というもの。
2011-06-17 22:28:43@igamoto 専門家(教える側)が「感覚的に」わかっていても、それでは具体的な実践に落とした教育には不十分いう話がありました。これは記述の問題であると同時に教育をどう実践に埋め込むかのデザインでもあるので、EMが貢献できるものは記述に留まるものではないと感じたわけです。
2011-06-18 06:13:07@shinichiro0912 なるほど。教師にとって「教育をどう実践に埋め込むかのデザイン」に役に立つと。私はリマインダーと言いましたが、こっちの表現がクールですね。「EMの記述はチュートリアル(だっけ?)」から一歩進んでますね。
2011-06-18 18:17:17@mnaoto 勝手に予想して投げたTIPsが多少はお役に立ったみたいでうれしいです。お話を聞いて@mnaotoさんの状況を察してみますと、現場への介入という点でアクションリサーチに近いものと捉えました。
2011-06-18 18:23:02@mnaoto そのうえで、教師の側の要望として実践を(ビデオを撮影することによって)自分たちの実践が何をしているのかを把握したい。その要望をEM的記述でかなえようとした場合、その記述が何なのかを理解できてないと教師の要望に応答できない、という懸念があるということかと思いました。
2011-06-18 18:24:14@mnaoto 問題は「その記述が何なのか」ということですが、「何」が「EM的記述の身分」の話であるならば、それはひとまず措いておいたほうがいいように思います。実践者の要望に応えることが一義ならそこに拘ってもあまり意味がないからです。
2011-06-18 18:26:00@mnaoto 次に「何」が「どう価値があるのか」という話でしたら、これは実践を行なっている側に判断してもらうのがスマートだと思います。以上を前提にして、どのようにEM的アプローチをゆるく使って現場と関わるのか、ということについて少々具体的に書いていきたいと思います。
2011-06-18 18:30:42@mnaoto アクションリサーチのなかでも、研究者の知見やアイディアを実践者の側に提供する、あるいは提案するスタイルがありますが、この場合、両者の関係において研究者が実践者が知らない知見を現場に教えるという関係性をとらざるを得ません。
2011-06-18 18:34:07@mnaoto しかしEM的研究の場合は、そもそも現場の方たちの実践を明確にするという立場をとりますから、研究者が実践者に何かを新しく教えるというわけでもありません。両者の立場の違いはそこで何が行われているのかを明らかにするという共通目的に沿って配分されるのが望ましいといえます。
2011-06-18 18:37:11@mnaoto 例えば、研究者は現場のことを知らなければどのようにビデオを回すのかも分かりませんので、実践者側から実践に関する情報をもらうことのほうが多いわけです。
2011-06-18 18:39:20@mnaoto 一方、実践者は現場の状況を研究者(というか素人)の素朴な疑問に沿ってかみくだいて説明するだけで、普段自分たちが何をしているのかについて考えるようになります。
2011-06-18 18:43:53@mnaoto 先のTipsで言い残したのは、ビデオをどう撮るのかということを考える、そして実際に撮ってみる、あるいは撮ってみて失敗したと分かることすべてが、現場の実践について理解する作業の一部であるということです。
2011-06-18 18:47:53@mnaoto このため、この部分の主導権を誰が担うのかということは、この知見が誰にとって必要になるのかということによって決まります。機材を持っている研究者が最初に決めがちなのは仕方ないことなのですが、このケースでは、後からでも実践者と一緒に考えていく作業があっていいと思います。
2011-06-18 18:48:55@mnaoto ビデオを撮影したとしても、高度に専門的な実践は、見ただけでは何をやっているのかさっぱり分からないケースが多々あります。このときには研究者側が教えてもらうためのデータセッションを幾度も組みました。義務教育レベルではそうしたことはないかもしれませんが。
2011-06-18 18:49:25@mnaoto こうしたプロセスにおいては、どんな教育実践にも必ず狙いがあるので、ビデオを見て何をしているのかをあれこれ話しているだけでも、実践者の側にはねらいに照らして反省的な志向性が生まれます。
2011-06-18 18:50:18@mnaoto いくつかのプロジェクトに参加して経験的に分かったのは、現場の中に非常に問題意識の高い方や実践を言語化ができる方がいるということです。こうしたプロセスで何らかの見解が定まっていけば、彼らの力を借りて実践研究としてまとめるのもいいかもしれません。
2011-06-18 18:50:48@mnaoto 実のところこうした介入の仕方をするときには研究者の立場は非常に弱くなります(笑)。何のために来ているのかといった情けない感じにもなりますが、何らかの文脈があって呼ばれている/押しかけているので、相応の求められた/求めることをしていくのが無理がないと感じています。
2011-06-18 18:51:28@igamoto 昨夜からのツイートに、すごい興奮してます!! ところで、あの辺って、モデル化して共有→そのモデルに基づいて変革された実践をまたモデル化→…(拡張的サイクル!)って話をしてると思うのですが、そういうサイクル辞退をパッケージした経験的研究って、ないものでしょうか?
2011-06-18 19:07:12