俳句を“読む”ということについて

俳句実作者、田島健一らによる俳句を“読む”ことに関するやりとり。
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たじま @tajimaken

『田島健一氏は「いや、だからと言って、読み方はひとそれぞれ、となるのは困る」と言い』は、ちょっと意図が違う http://spica819.main.jp/atsumaru/1172.html?utm_source=twitterfeed&utm_medium=twitter

2011-06-18 03:19:19
たじま @tajimaken

言いたかったのは「読み方はいろいろあっても、ひとつの読みしかできない」ということ。「人生いろいろ」とはいっても、人は自分の人生しか生きることができない、ということと同じ。

2011-06-18 03:20:12
たじま @tajimaken

ところで、「コンテクスト」という言葉がどうもひっかかる。

2011-06-18 03:24:47
たじま @tajimaken

橋本さんや、神野さんがよく引いてくる『読むための理論』によれば、コンテクストとは「言語学の分野で、抽象的な言語形式と、場面という言語外の要素との結びつきを示すために用いられた」概念、だそうだが、

2011-06-18 03:26:12
たじま @tajimaken

そもそも「コンテクスト」の概念自体が言語化されているのでは?前提となっている「言語外」の場という想定が、どうも腑に落ちない。現俳協の勉強会でひっかかっていたのも、それ。

2011-06-18 03:28:03
たじま @tajimaken

句を通して顕れた「主体」と、「生身の作者」という分けがなんかヘン。「生身の作者」を読みの条件に含めるか、含めないか、という議論は何か議論の立脚点が間違っている気がする。

2011-06-18 03:31:50
たじま @tajimaken

あ、もちろん、そこでは「生身の作者」が、「言語外の場」として、つまり「コンテクスト」として想定されているのだろうけど、そもそも「生身の作者」も言語を通してしか認識できない。言語化されていない、ニュートラルな主体は、想定できないのじゃないか。

2011-06-18 03:34:07
野口る理 @wwwqpwww

@tajimaken なるほど、です(あの場ではそこまで仰らなかったと思いますが)。となると、神野さんの意見と近いように思います。さまざまな読みは可能でそこから選ぶ、という意味で。

2011-06-18 03:31:53
たじま @tajimaken

@wwwqpwww そういう話にもっていこうと思っていたけど、持っていけなかった(-_-;)。x

2011-06-18 03:38:29
たじま @tajimaken

@wwwqpwww あ、でも、神野さんとはやっぱり違うな。つまり「さまざまな読みは可能」→「そこから選ぶ」のではなく、「さまざまな読みは可能」ということが、もう既に一つの態度なんで、それはもう既に選んでしまっているのだ、ということじゃないかな。

2011-06-18 03:40:21
たじま @tajimaken

「さまざまな読みは可能」と言っているあいだに、もう「読み」は始まっている。

2011-06-18 03:46:08
たじま @tajimaken

んー、わかりにくいかな。就職の面接で、面接室に入る前から、もう面接は始まっているのよ、ってのと似ているね。これが、いわゆる「態度の問題」というやつなのじゃないかと思うのだけどね。

2011-06-18 03:47:08
たじま @tajimaken

「言語外」という概念は、確かに想定可能だけれど、主体はそれを選択することが出来ないのだよね。これがいわゆる不可能性というやつ。

2011-06-18 03:48:53
野口る理 @wwwqpwww

@tajimaken では田島さん的には、初読の印象(感動)が全て、ということでしょうか。あと、ページにツイート(「言いたかったのは~」)を貼り足しておきますか?

2011-06-18 03:48:13
たじま @tajimaken

@wwwqpwww うーん、そうではないのだけど、そのあたりのことは、また改めて。なんか、うるさいと思われるの嫌なんで。(・・・って、もうすでに思われているのだろうけど)。あ、ちなみに貼り足しは不要です。「あ、そう伝わってたのね」って思うことはよくあることなので。

2011-06-18 03:54:24
たじま @tajimaken

うーん、なんか腑に落ちないところがいっぱいありすぎて、悶々とする。ちょっと、spicaの「読む」ということと、僕の考える「読む」ということの間には距離があるなぁ。 http://spica819.main.jp/yomiau

2011-06-19 00:27:55
Ryu Yotsuya @leplusvert

田島さんのツイートのリンクをたどったら、私の俳句が俎板に乗っていたのでびっくりした。 http://t.co/JlFj160

2011-06-19 01:03:00
Ryu Yotsuya @leplusvert

村上鞆彦さんが「僕らの世代は、夾竹桃っていうと、原爆投下のイメージなんだよね」という前提で論じているのには唖然とした。そこまで制約されなければならないのだろうか。

2011-06-19 01:04:02
たじま @tajimaken

@leplusvert 僕も同じ所に反応しました。夾竹桃=原爆投下のところ。俳句はどう読んでも自由だけど、なぜそんなに季語を象徴的にとらえようとするのか。

2011-06-19 10:15:06
たじま @tajimaken

夾竹桃「が」と、助詞を補足したくなる心理も同じところから来ているのだと思います。「夾竹桃」という唐突にも感じる上五を散文的に咀嚼するためなのではないでしょうか。

2011-06-19 10:17:17
Ryu Yotsuya @leplusvert

@tajimaken この句は新宿御苑での吟行作なんだよね。二人の女性が話しているのを通りすがりに聞いて、「電話で話したら、彼女『自分をふるいちゃたせなきゃ』って言うのよ」というのが聞こえた。

2011-06-19 10:23:53
Ryu Yotsuya @leplusvert

ちょうど目の前には夾竹桃が咲いていた。私は自分が俳句を作る場合でも他人の句を読む場合でも、寓意的な理解は極力排除するのですが。

2011-06-19 10:25:14
たじま @tajimaken

spicaに限らず、僕自身も反省としてありますが、つい、俳句を散文的に理解可能なものに落としこもうとする心理は、結構手ごわい。「夾竹桃」と「自分をふるいたたせろ」のあいだには、文脈は存在しないのでしょうね。

2011-06-19 10:29:03
たじま @tajimaken

「文脈が存在しない」というプレッシャーに耐えられずに、ついそこに文脈を当てはめてしまう。そこを何かに置き換えてしまうのならば、そもそも短い詩系で表現する必要はないのではないかな、と。

2011-06-19 10:30:11
たじま @tajimaken

俳句を「読む」というとき、純粋に「読む」ことは少なくて、たとえばspicaの座談会(?)のようなケースは、その「読まれたこと」を、「書く」という段階を持っていて、「読み」→「書く」という段階でいろいろと雑多なものが入り込んでくるんですね。

2011-06-19 10:33:03