(2020/06/19に中断)日本語で学ぶアメリカ史 第二話 パート2 (教材:David M. Kennedy and Lizabeth Cohen, "American Pageant'' 16th ed.)

注:本プロジェクトは2020年6月19日に凍結しました。
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Mr. HB @USHist_English

Part2 ●独立宣言(8-2-1) 大陸会議はイギリスとの完全な断絶の近づきました。1776年6月7日、ヴァジニアのリチャード・ヘンリー・リーはアメリカ植民地の独立を訴えました。熱い議論の末、7月2日にリーの動議は採択されました。 独立宣言写し pic.twitter.com/z9MnUFlfha

2020-06-04 21:30:27
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Mr. HB @USHist_English

リー決議の通過は正式な独立「宣言」であり、実は法的にはこれだけでイギリスと完全に断絶しました。しかし、リー決議は正式な説明を要しました。精神を鼓舞するような訴えかけが他の英領アメリカ植民地を引き込むにも、外国の支援を受けるにも、13植民地内部での抵抗を促すにも、必要でした。

2020-06-04 21:31:52
Mr. HB @USHist_English

リーの6月の動議からまもなく、大陸会議は正式な分離声明を準備する委員会を設立しました。この声明起草を担当したのが当時33歳のトマス・ジェファソンでした。彼は若くして著述家の才能を認められ、この仕事も上手くこなしました。そして議論を経て、ついに1776年7月4日、(続)

2020-06-04 21:33:25
Mr. HB @USHist_English

(承) 「独立宣言」が正式に大陸会議により承認されました。こうした事情から独立宣言は「独立説明」と呼んでいいでしょう。実際、当時は「ジェファソン氏によるリー氏決議の宣伝」とも言われていました。

2020-06-04 21:33:27
Mr. HB @USHist_English

独立宣言は人類の「自然権」に訴えかけるのか特徴でした。単にイギリス人としての権利ではありませんでした。国王は自然権を侵害したから独立したという論理が展開されました。続けてジョージ3世の悪行が列挙されているのはよく知られていますが、その内容は同意なき課税、(続)

2020-06-04 21:35:50
Mr. HB @USHist_English

(承) 陪審による裁判をしなかったこと、価値ある諸法の撤廃、軍事独裁の実施、平時に常備軍を展開、傭兵の雇用、インディアンの敵意煽動などです。ところで、独立宣言は邦訳もたくさんありますが、どこかの機会に原文で実際に読んでみましょう。

2020-06-04 21:35:51
Mr. HB @USHist_English

教科書に曰く、ジェファソンの声明はまるで検事のように一方的でした。彼は歴史を書いたのではなく、むしろ歴史を作ったのでした。また、彼は奴隷所有者であり、「全ての人は平等に造られた」という文言にアメリカ人は長く悩まされることになりました。 この文言は南北戦争以上の事柄を指しています。

2020-06-04 21:40:32
Mr. HB @USHist_English

さて、独立宣言によって外国への支援要請が可能になりました。今や革命軍は自身も反乱者と認める立場になりました。フランクリンは全員が団結(hang together)するか個別に吊るし首になるか(hang separately)だと言ったと伝わっています。

2020-06-04 21:42:04
Mr. HB @USHist_English

独立宣言はアメリカ史の中で最も普遍的なインパクトを持ちました。数知れない革命運動において独立宣言は心を鼓舞する文書でした。ラファイエットは自宅の壁に独立宣言の写しを掛けていました。

2020-06-04 21:44:47
Mr. HB @USHist_English

●王党派(8-2-2) 愛国派、すなわち革命軍はイギリス側についた植民地人、つまり王党派とも戦わねばなりませんでした。王党派はイギリスの党派に倣って「トーリー」とも侮蔑的に呼ばれました。アメリカ人の16%を占めたと言われます。

2020-06-04 21:46:01
Mr. HB @USHist_English

家族が分断されることもあり、例えばベンジャミン・フランクリンは愛国派になったところ、彼の私生児は王党派を貫きました。教育を受けた富裕層や文化人の多くが王党派に留まりました。年長世代に多かったことも分かっています。

2020-06-04 21:47:03
Mr. HB @USHist_English

国教会の強い地域に王党派が多い特徴もありました。もっとも、例外的にヴァジニアでは国教徒の郷紳も借金を重ね、愛国派に走った者が続出しました。ニューヨークやペンシルヴァニア、ニュージャージーに王党派は多くおり、(続)

2020-06-04 21:51:35
Mr. HB @USHist_English

(承) ヴァリーフォージでは地元ニュージャージー民にワシントンは見向きもされませんでした。一方、自治が発達していたニューイングランドでは王党派は少数でした。

2020-06-04 21:51:37
Mr. HB @USHist_English

独立宣言以前から王党派は愛国派に弾圧されていましたが、以後はより苛烈な弾圧になりました。何百人も投獄され、非戦闘員が絞首刑にされた事例もありました。ただ、フランスやロシアほど熾烈ではありませんでした。アングロサクソン系の秩序志向や、王党派は賢明にも逃亡できたことなどが理由です。

2020-06-04 21:52:14
Mr. HB @USHist_English

8万人もの王党派がアメリカを逃れたとされる一方、穏健な王党派はアメリカ滞在を許されました。逃亡者の残した財産は没収され、王党派寄りだった者の財産権もしばしば侵害されました。なお、約5万人の王党派志願兵がイギリスのため戦いました。諜報活動、インディアン煽動などを行なっていました。

2020-06-04 21:52:44
Mr. HB @USHist_English

●ワシントン将軍の最盛期(8ー2ー3) ボストンを脱出したイギリス軍はニューヨークを拠点にしました。先述の通り、王党派が多い地域です。1776年7月、約500隻の船と3万5千人のイギリス軍がニューヨーク沖に現れました。対するワシントンは訓練の不十分な1万8千人の軍隊で迎え撃つことになりました。

2020-06-04 21:53:42
Mr. HB @USHist_English

当然、惨敗です。ロングアイランドの戦いでは散々に打ちのめされました。風と霧が運良く味方してくれたので、ワシントンはかろうじてマンハッタン島に退却できました。彼は北に撤退し、ハドソン川とデラウェア川を渡って行きましたが、イギリス軍はすぐそこまで迫っていました。愛国派はどん底でした。

2020-06-04 21:54:26
Mr. HB @USHist_English

ワシントンに対峙したウィリアム・ハウ将軍は不思議にも革命軍を蹂躙しませんでした。ハウは軍事的天才ではなく、バンカーヒルで辛酸を舐めたからだとされます。職業軍人としては、兵站も不満足な状態でに冬に作戦を遂行したくなかったのもありました。 ウィリアム・ハウ将軍 pic.twitter.com/0GO6gb0GET

2020-06-04 21:55:44
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Mr. HB @USHist_English

そこでワシントンは奇襲を仕掛けるため、再びデラウェア川を渡ります。1776年12月26日、トレントンにて彼は奇襲に成功し、1000人のヘッセン人傭兵を捕縛しました。彼らはクリスマスの祝祭でぐっすり眠っていたのです。一週間後にはニュージャージーのプリンストンでイギリス軍の小部隊を撃破しました。

2020-06-04 21:56:32
Mr. HB @USHist_English

●イギリス軍の侵攻(8ー2ー4) 1777年、イギリスはハドソン川峡谷の占領プランを練り上げました。ここを落とせば、ニューイングランドは中部・南部アメリカから切り離されるからです。主要な侵攻軍はジョン・バーゴイン将軍が指揮を執り、カナダのシャプラン湖を下るルートを進む予定でした。(続)

2020-06-04 21:58:40
Mr. HB @USHist_English

(承) もし必要とあらば、ハウ将軍とオルバニーで落ち合う算段もつけていました。イギリス軍は決定的勝利をいよいよ本気で狙ってきたと言えます。

2020-06-04 21:58:42
Mr. HB @USHist_English

シャプラン湖にはケベックで敗れたベネディクト・アーノルド将軍がゆっくり撤退しており、イギリス軍はシャプラン湖の確保に苦労していました。ここを獲らなければ、軍事供給がままならず、南進できませんでした。アーノルドの活躍によりバーゴインは1776年のうちに南進できず、(続)

2020-06-04 22:00:45
Mr. HB @USHist_English

(承) 越冬せざるを得なくなりました。もし南進に成功していれば、イギリスの作戦は成功していたと考えられています。アーノルドは負けて勝ったというか、怪我の功名というか、あの無謀な侵略がまさかの形で重大な意義を持ったと言えましょう。

2020-06-04 22:00:47
Mr. HB @USHist_English

バーゴインは7千人の正規軍を率いて侵攻を開始しました。轍だらけの道な上に、士官達の妻を多く連れていたため進軍速度は遅く、森林を切り開くのも時間がかかりました。その間に革命軍はバーゴインの両翼を攻める準備を進めていました。

2020-06-04 22:02:07
Mr. HB @USHist_English

一方、ハウはバーゴインを助けに行かず、何と革命軍の首都だったフィラデルフィアを攻めに行きました。現在では、ハウはバーゴインの進軍を妨げる革命を蹴散らそうとしていたと分かっています。バーゴインを助けに行く時間は十分あると思っていたのです。

2020-06-04 22:02:35