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新田義貞の最後

まとめ(仮)
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真庭ふしぎ@風来人 @fusigi_plants

建武3年10月、足利尊氏との戦いに敗れた新田義貞は後醍醐天皇の皇子である恒良親王と尊良親王を奉じて住みなれた京都を捨て北陸を目指す。新田義貞は足利尊氏との抗争の場を北陸に移したのだ。 pic.twitter.com/0eW6MmkZrd

2019-12-29 22:11:21
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気比神宮。敦賀に鎮座する越前一ノ宮であり祭神は伊奢沙別命という神様である。外国との玄関口である敦賀にあるこの神社は古くから朝廷と深い関係にあることで知られる。 pic.twitter.com/wknABmUlRq

2019-12-29 22:17:46
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金ヶ崎城跡。この敦賀にある山城は気比神宮宮司である気比氏治の居城である。敦賀に落ち延びてきた新田義貞らはこの三方を海に囲まれた要害である「金ヶ崎城」に入城した。 pic.twitter.com/86WfDRRGtk

2019-12-29 22:32:19
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新田義貞らの篭城する金ヶ崎城は足利方である斯波高経率いる追討軍に包囲される。堅牢な城砦である敦賀の金ヶ崎城を攻めあぐねた斯波高経は金ヶ崎城に対して兵糧攻めを行う。 pic.twitter.com/3luiyf2oeK

2019-12-29 22:37:30
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古墳。昭和40年に金ヶ崎城内で発見された円墳である。どうやら竪穴式石室であるようだ。「金ヶ崎城」で篭城していた人々はこの古墳に気づかなかったに違いない。 pic.twitter.com/ixpGmoA0Vp

2019-12-29 22:40:03
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月見御殿。この郭は南北朝時代にはどうやら金ヶ崎城の本丸であったようだ。斯波高経の激しい攻撃の際、南朝方の大将である新田義貞はこの「月見御殿」にいたに違いないだろう。 pic.twitter.com/V39aglNSUA

2019-12-29 22:45:02
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新田義貞はこの「月見御殿」で南朝方に同調する援軍を待ち続けたのだろう。だが新田義貞の期待に反して「金ヶ崎城」へ援軍が来ることはなかった。 pic.twitter.com/Jj8LoLefrA

2019-12-29 22:46:44
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瓜生保戦死の地。討死した南朝方の武将である瓜生保が討死したと伝わる地。新田義貞の籠城する金ヶ崎城の救援に来るつもりだった瓜生保は樫曲付近で今川頼貞の軍勢の待ち伏せを受けて討死していた。 pic.twitter.com/a5lEb7VYuP

2019-12-29 22:55:33
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救援の来ない金ヶ崎城は飢餓地獄と化す。延元2年3月5日夜、死肉すら食べたというこの「飢餓地獄」から救援を求めるため新田義貞は脱出することに成功する。 pic.twitter.com/Bc8tFI4RLz

2019-12-29 23:07:14
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延元2年3月6日、新田義貞が篭城していた「金ヶ崎城」はついに落城する。金ヶ崎城に篭城していた新田義貞の嫡男の新田義顕、気比氏治ら以下300余名の篭城兵はこの金ヶ崎城で自刃した。 pic.twitter.com/RaFjffg1z4

2019-12-29 23:12:07
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尊良親王御墓所見込地。金ヶ崎城で自刃した後醍醐天皇の皇子である尊良親王の「墓所見込地」。尊良親王は新田義顕の金ヶ崎城脱出の勧めを拒絶し自刃したという。 pic.twitter.com/lrFUwdVzgs

2019-12-29 23:17:43
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絹掛神社。金崎宮摂社であるこの神社には「金ヶ崎の戦い」で死んだ武将が祭られている。祭られている武将は新田義顕、気比氏治、気比斎晴、瓜生保ら300余名の将士達であるようだ。 pic.twitter.com/VF2rQf6iN0

2019-12-29 23:21:15
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金崎宮。明治時代に金ヶ崎城跡地に建立された神社である。主祭神は非業の死を遂げた後醍醐天皇の皇子である尊良親王、恒良親王の二人である。尊良親王は金ヶ崎城落城の際に自刃し、恒良親王は足利方に捕らえられ後に毒殺されている。 pic.twitter.com/Jv0Od4Wcr7

2019-12-29 23:27:09
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杣山城跡。金ヶ崎城から脱出した新田義貞が身を寄せた山城である。金ヶ崎城が落城した後はこの山城が新田義貞の主戦場となる。 pic.twitter.com/ksnltOt4jb

2019-12-30 07:06:38
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二ノ城戸外濠跡。杣山城に入る谷の入り口にある土塁と壕跡。杣山城という城郭が巨大な要害であったことがわかる。 pic.twitter.com/kutGb0zXZH

2019-12-30 09:32:44
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新田義貞も常に杣山城に籠城していたわけではないだろう。足利方が攻めてきた際、普段の生活の場である居館からこの山道を登って詰城に向かったのだろうか。 pic.twitter.com/SSKBkbA79E

2019-12-30 09:35:30
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殿池。杣山城内にある池である。この「殿池」は冬期でも増水することがないという。杣山城主であった源頼親及び瓜生保らはこの「殿池」を飲料水として使用したという。 pic.twitter.com/MYCfSHx9C0

2019-12-30 09:58:23
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姫穴。杣山城内にある殿池から下ると現れる洞穴である。この断崖絶壁にある小さな穴の中に新田義貞の正妻である勾当内侍が一時身を潜めたと伝わる。 pic.twitter.com/0SXVWp6lKJ

2019-12-30 12:18:11
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断崖絶壁で身を潜めた勾当内侍の生活は想像を絶するものだったに違いない。新田義貞に北陸に招かれた勾当内侍の日常はで京都での華やかな生活から一変したことがわかる。 pic.twitter.com/dkLvpnFBrF

2019-12-30 12:23:18
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「姫穴」を覗くとこのような穴の中で生活はまあ無理だろう。勾当内侍は本当に僅かな一時だけ身を潜めただけなのかもしれない。 pic.twitter.com/qB2HKYtFDJ

2019-12-30 12:25:50
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鎌倉幕府を滅ぼした英雄の生活はあまりに惨めなものだった。金ヶ崎城を失い杣山城に押し込められた新田義貞は未だに闘志を失ってたわけではなかった。 pic.twitter.com/VoUnyJiUXd

2019-12-30 12:32:10
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府中城跡。越前守護である斯波高経の拠点があった場所である。杣山城の新田義貞は越前府中の攻略に成功し、足利方の斯波高経を福井方面に敗走させている。 pic.twitter.com/cREGOHqYoD

2019-12-30 19:04:17
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越前府中の攻略に続き敦賀の金ヶ崎城の奪還に成功した新田義貞は勢いに乗り敗走した斯波高経を追い福井に向かった。北陸に置ける南朝方の勢力は盛り返した。 pic.twitter.com/3lDFRRZlRR

2019-12-30 19:08:40
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小黒丸城跡。北朝方が福井に築城した城である「足羽七城」の一つである。福井に敗走した斯波高経はこの「小黒丸城」に籠城し新田義貞ら南朝方の軍勢を苦しめた。 pic.twitter.com/RxEJ0IVLjH

2019-12-30 19:15:20
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