ある医師の家族に半世紀前に起こった話と、その言葉の重みが心に刺さる「それでも私たちはワクチンを推進すべきだと明確に思う」

※読んだ方の反応と先生の返信を一部追加させて頂きました。
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網野幸子 @sachiko_amiko

実父は陸軍士官学校に合格して入る年に終戦になり医学校へ入学した。終戦後問題になったのは感染症でこの勉強をしたいと思って師事する先生を探したらその先生が産婦人科医だったので産婦人科に入局した。皮肉なことに父の子どもはポリオ生ワクチンの副反応被害児になった(私の兄弟だ)

2020-06-16 03:04:41
網野幸子 @sachiko_amiko

それでも父やその先輩はワクチンに対して疑義を持たなかった。それだけ生ワクチンが足りずに子ども達が命を落としたからだ。当時私たちは公団住宅に住んでいたが私でも同じ団地内で3、4人の子どもが亡くなったことを知っていた。副反応被害児になった兄弟は父が勤めていた大学病院で学生の為に供覧する

2020-06-16 03:09:42
網野幸子 @sachiko_amiko

ことを頼まれて父母共に断れなかった。兄弟は1才迄元気に育ち生ポリオワクチンを投与されたのち自宅で泡を吹いて倒れ3日間意識をなくした。私からみたら真っ黒なゴム人形になったように見えた。偶々、父が出勤する直前のことで私たちだの兄弟姉妹は近所の人と親戚に急ぎ連絡して頼まれ父母共に患児に

2020-06-16 03:14:02
網野幸子 @sachiko_amiko

付き添って父の勤務先まで搬送された。その時の母の手帳が残っている手帳の最初の方にはその日の買い物の予定がかかれてある。お豆腐一丁、ほうれん草1束、魚何か良さそうなもの。などという平和で長閑な日常のメモだ。しかし、何頁かをめくると突然、医療現場の温度板のように熱や処置、輸液や心拍等

2020-06-16 03:18:31
網野幸子 @sachiko_amiko

の素人なりの記録がぎっしり書いてあるようになる。しかも寝ずにずっと。そしてその余白には自分を責め、呪うような文章で埋め尽くされている。ワクチンを取る前にに自分が子どもの観察を怠ったのではないか?担当医師に聞くべきことをしなかったのではないか?これは読んでいて私も本当に辛い文章だ。

2020-06-16 03:22:34
網野幸子 @sachiko_amiko

だから、私はワクチンのせいで子どもに副反応が出たと思っている親御さんの気持ちを傷付けるような言葉を使うことは避けたい。でも、ワクチンの効果がワクチンを用いない状態よりどれだけ子どもを救うのかも同時に見てきたし、また、医師の端くれとして学んで来た。兄弟には3日間意識を失い、

2020-06-16 03:26:18
網野幸子 @sachiko_amiko

生ポリオワクチンの副反応による病態との闘いで後遺症が残った。それは凄惨な虐めの中を生きて来た。言葉に出来ない陰湿なものだ。あの手の虐めは今も全く変わらないし、更に言えば本来こうした患児を治す側に立つ医療者の中にも同じか或いは下手に頭が良いだけに更に陰湿さを増した嫌味や嫌がらせが

2020-06-16 03:30:39
網野幸子 @sachiko_amiko

虐めが一部にはあると思っている。恥ずべきことだ。兄弟はそれでも自分で生きていける迄に回復した。ある時、実父の誕生日を祝うので実父が可愛がっていたお兄さんのやっているお寿司屋さんに家族全員で出掛けた。そのお寿司屋さんのお兄さんはまだ若くして同業のお父さんを肝臓癌で亡くしているのだ。

2020-06-16 03:34:52
網野幸子 @sachiko_amiko

父も5才で父親を亡くしている。その時、父はもう80に近かったので好きだったウイスキーも抑えていた。ただ、少し機嫌良くいつもより杯を重ね、息子に私たちの前でこう言ったのだ。「君には本当に済まないことをした。君の時に自分でも相当に調べたのだがポリオの蔓延は酷いものだった

2020-06-16 03:39:22
網野幸子 @sachiko_amiko

君が投与されたワクチンは海外から緊急輸入されたもので実績に不安はあったが国が良しとしたものであるから良かろうと判断してしまったのだ」息子は、「仕方がないよ。昔のことだし僕は死ななかった」と言ったが。そのあとポツリと「お父さんからそう聞いて救われた」と小さな声て言った。

2020-06-16 03:43:17
網野幸子 @sachiko_amiko

私たち家族は生ポリオワクチンの為にみんなが普通でない経験をした。書きあげたらキリが無い。それでもワクチン推進派だ。多くの人を子ども達を救っている。父は息子の為と考えて仕事を選んだと思う。元々は研究が好きだった人だ。しかし、おそらくそのお陰で長生きしてくれた。

2020-06-16 03:47:01
網野幸子 @sachiko_amiko

息子のことがあった時、父はワーカホリックになって気を紛らわせていたと思う。その結果、身体を壊し勤務先の内科の前で医師に捕まり即入院して3年間仕事に復帰出来なかった。87才の4月、自分の葬式の話を始めた。5月、自分の葬式の写真を選んで持って来て焼き増しした。6月胸痛を起こして緊急搬送

2020-06-16 03:51:16
網野幸子 @sachiko_amiko

された。年齢なりに冠動脈疾患なども持っていたが優秀な救命士さんの判断で血液内科に搬送された。恐らく父は自分の状態を分かっていたのだと思う。酷く疲れて動くのも大変だったのだ。検査が行われれば何を疑っているかも直ぐに分かる。背中前面紫になっており、最終的に悪性リンパ腫と診断された。

2020-06-16 03:55:53
網野幸子 @sachiko_amiko

年齢から化学療法の適応はない、今死んでもおかしく無い状態で主治医になって下さった若い女性医師から検査データの変遷を記した紙と延命処置はしないということへのサインをする書類を受け取り、父に相談することもなくそれにみんなが同意してサインした。父の所に戻ると父は眼鏡を取り出した。

2020-06-16 04:00:00
網野幸子 @sachiko_amiko

「ご覧になりますか?」兄弟が悩みながら言うと父は何も言わずに頷いた。延命治療を望まないと言う書類だけでなく経過を示すデータをも渡さざるを得なかった。どんどん悪化していることを示すデータだ。しばしそれを眺めてまた黙って眼鏡をしまった。入院した際慌てて駆けつけた私たちに、

2020-06-16 04:04:16
網野幸子 @sachiko_amiko

「これで最期な訳だがもう一山越えなければならない」と父は言ったがそれは臨終の瞬間のことだろうと解釈していた。「1度家に帰れないものだろうか?」それまで、ラーメンが食べたい、カレーが食べたい、寿司が食べたい、家に帰りたい。と言っていた語調とは異なっていた。代表で1人が主治医の先生に

2020-06-16 04:07:53
網野幸子 @sachiko_amiko

伺いを縦に行った。主治医の先生は一泊外泊をされても構いませんがその間にもいつ急変するか分からないことをご理解頂けますか?と仰った。外泊中に死ぬことがあると言うことだがその時は看取ろうと家族で一致した。父を連れて家に戻った。可愛がっていたお寿司屋さんのお寿司をとって少しだが食べた。

2020-06-16 04:12:01
網野幸子 @sachiko_amiko

彼の唯一の楽しみは庭いじりだった。窓から庭を見て、「やはり家はいいなあ」と言った。行き付けの散髪屋さんがわざわざ来て下さって髪を切った。偶々届いていた大学同窓会の葉書に母が代筆して少々身体を壊し治療中ですと言うように書いて投函した。そして翌日、父は亡くなった。

2020-06-16 04:15:52
網野幸子 @sachiko_amiko

87にもなるとお仲間にも迷惑になるので葬式は家族だけでやって欲しいと父は言っていたのだが、いつも几帳面に書く同窓会の葉書に不審を感じて連絡を頂いてしまった。まさか、亡くなっているのに療養中とも言えず亡くなりましたと答えるしかなかった。同門の先生方がいらして下さって大学同窓会から

2020-06-16 04:19:48
網野幸子 @sachiko_amiko

立派なお花を沢山頂いた。父は決して名声のある人では無い。だけれど、今一般に使われているある抗菌剤は父の仕事だ。名前も載っている。若い先生方がとても頼もしく思えるようになって来た昨今、年取った医者を老害扱いする言動を聞くことも少なくない。沢山の努力や辛さを乗り越えて来た先人が

2020-06-16 04:25:51
網野幸子 @sachiko_amiko

今の時代を作っていることを私は忘れまいと思う。どの世界でも、そして良しにつけ、悪しきにつけ。今自分のやっていることも将来にことを及ぼすのだと。私が医学部に行った時代は各大学に10人程しか女子学生はいなかった。しかし、今、子ども達が医学生になって女子が半数を占めるように迄なった。

2020-06-16 04:30:33
網野幸子 @sachiko_amiko

AI なども進み非常に速く全てが進んでいる。既定路線はなくなりある意味自由に仕事もできる。自由はよい、そして難しい。兄弟が1才で苦しんだことで私の家族も随分考え辛くなかったとは言えない。未来がより良くなりよう祈ってやまない。起きている必要があったので取り留めもなく書いた。

2020-06-16 04:35:06
網野幸子 @sachiko_amiko

多分、相当に駄文で恥ずかしいものだと思うが、もう何でもいい。医者って何だか違うものになったような気もする。私の叔父は55才で保健所に医師免許を返しに行き福島で百姓をして生涯を終えた。何となく叔父の気持ちが分かるようになって来たこのごろではある。

2020-06-16 04:39:31
網野幸子 @sachiko_amiko

追)父は80を越えても週に1度診療をしていた。大先生(だいせんせい、ではなくおおせんせい、と言う)と患者さんから呼ばれ父じゃなければ安心出来ないとか、父がお産を取った患者さんのひ孫さん迄が受診されていた,その他は家で過ごしていたが良いケアマネージャーさんや訪問看護師さん、介護士さん達

2020-06-16 05:07:09
網野幸子 @sachiko_amiko

に恵まれた。 自宅で葬儀を行ったのだが介護でいらしていた方がお棺を閉める間際に父が大切にしていた庭から幾つかの花を積んでお棺に納めて下さった。父は87でも自立しておりそう困ることも無かったのだが、植木や花が好きだと知って介護の方々が仕事をしながらそんな話をして下さったのが楽しかった

2020-06-16 05:12:36
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