南部藩をインフレで苦しめた偽金の歴史が興味深かった

菅原秀幸 「南部密銭史」 岩手出版 1986年
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猿田 @Ryokansato

菅原秀幸「南部密銭史」めちゃくちゃ面白かった。元文4年(1739年)に幕府が寛永通宝を鉄銭で発行してから明治2年(1869年)に私鋳銭が禁止されるまでの130年に渡って密造された鉄銭が南部藩をインフレで苦しめた歴史がまとめられている。 pic.twitter.com/o7TC2zFuU4

2020-06-20 21:29:13
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猿田 @Ryokansato

天明4年(1784年)、天明の飢饉の救済策として、仙台藩は藩内のみでの流通を条件に鉄銭の鋳銭を幕府から許される。この仙台通宝は悪貨として嫌われ、市場から銅の古銭が退蔵されることになるが、仙台から物品を買えると南部藩でも流通、密造しやすい鉄銭であるために大量に作られてしまう。

2020-06-20 21:34:55
猿田 @Ryokansato

南部藩は偽金の取締りに躍起になり、没収したり鋳銭したものを死罪にするなどの対策を取るが、役人が買収されたり、偽金は額面の半値で売れるので作るものが絶えなかった。しまいにはそれぞれの家で作るようになり、飢饉の際には村を挙げて堂々と作るまでになる。

2020-06-20 21:40:12
猿田 @Ryokansato

南部藩は庶民から鉄銭を取り上げ、藩札を代わりに発行したが、藩札は正貨に換えられる保証がなく、1年で価値が100分の1まで下がってしまい、藩札を引き受けた藩内の商人も大打撃を受けてしまう。藩の失策と取り締まっても消えずに増える贋金で南部藩はインフレで困窮し続ける。

2020-06-20 21:43:46
猿田 @Ryokansato

偽金が横行すると正規の銭は皆隠すようになり、偽金が通用しない江戸などとの対外交易に使われ流出するため、余計に偽金の藩内での流通が加速する。八戸藩は取り締まる一方で江戸に送る正貨を得るために八戸に支店を置く御用商人に偽金を払って江戸に正規の金として送金させていた。

2020-06-20 21:53:26
猿田 @Ryokansato

幕末の南部藩は、西洋式の溶鉱炉を作って鉄の増産に成功したが、その鉄の買い手がなかなか見つからず、幕府に鋳銭の許可を得て鉄を消費しようと躍起になった。なんとか許可を得て銭座を作るが、初年度は技術的に不良品が多く生産目標に達せず、凶作で米価が暴騰し職人の食費と現物支給の米で大赤字に。

2020-06-20 22:01:21
猿田 @Ryokansato

せっかく作った銭座も赤字のために手放し、御用商人に請負させる。すると、経営改革により銭の生産量は2.5倍になり莫大な利益を産む。そのため藩は民営の銭座に年6万3千貫文の納税を要求するが、役人に総額1万3千貫文の賄賂を渡すことで3万貫文まで下げさせてしまった。

2020-06-20 22:07:20
猿田 @Ryokansato

その大迫銭座も、莫大な利益を上げていることに反感を持った近隣の農民数百人が徒党を組み金をゆすろうとしたが、農民の持つ松明が銭座に燃え移り、全焼させてしまう。多くの職人と近隣の住民が職を失ってしまった。

2020-06-20 22:10:54
猿田 @Ryokansato

大迫銭座の成功から、新たに釜石に溶鉱炉付きの銭座が作られるが、操業から1年4ヶ月で明治政府が鋳銭を禁止されてしまう。その後、表向きはただの製鉄所になるが、夜中に鋳銭を行う偽金工場となる。

2020-06-20 22:13:48
猿田 @Ryokansato

明治維新の際に南部藩は秋田藩と戦争をしたために財政が逼迫していた。そのため、秘密裏に二分金貨の贋造も行っている。金貨の密造技術を持つものはいなかったので、偽金貨を作り入牢中だったものを出牢させて指導に当たらせた。偽造された二分金貨は銀に金メッキを施したもので、5万6千両作られた。

2020-06-20 22:20:23
猿田 @Ryokansato

明治維新すぐの頃は、明治政府も財政が逼迫しており、八戸藩が明治政府に偽造金貨を献上した記録が残っている。この偽造金貨は南部藩が作ったものを接収したのか、八戸藩でも作っていたのかは分からないが、明治政府も偽金と分かった上で利用したと見られる。

2020-06-20 22:23:41
猿田 @Ryokansato

菅原秀幸「南部密銭史」、他にも面白い話がたくさんあるので、図書館で読める人は是非。道で15両分の偽金を拾った女が役所に届けたら、近くからさらに290両分の偽金が出てきたが、その偽金を役所が入札で売り払ってしまったという謎が多すぎる記録とか色々あるよ。

2020-06-20 22:28:40