指標的事実と“場の表現”

第58回京都哲学道場「永井均」にて、永井哲学では思考実験に何故か指標的事実<ここ>が使われない、という一見奇妙にも思われる事実が指摘された。三浦言語学を駆使する向こう見ずな青年 @goodmad は、<場の表現>なる概念を用い、この謎に肉薄しようと試みるが、永井派の魔手は彼にも忍び寄ろうとしていたのだった……。 † 永井均『私・今・そして神』(http://www.amazon.co.jp/dp/4061497456) † 三浦つとむ『言語学と記号学』(http://www.amazon.co.jp/dp/4326100184
1
ふかくさ @fukaxa

ジェイコブ氏が「今」や「私」などと「ここ」との違いを指摘していたのだが、それがイマイチ理解出来ておらんのでアタマがわるい。

2011-06-28 16:14:46
ふかくさ @fukaxa

「ここ」は「私」や「今」や「現実」と違って実際に入れ替えてさらにまた戻してみせたりもできるから、その点は違うようだな。

2011-06-28 17:46:46
ふかくさ @fukaxa

「私はオバマでもあり得た」って言ったって実際にオバマになってみせるわけにはいかないが、「ここはニューヨークでもあり得た」ってんなら実際にニューヨークに行けばいいもんな。「私はオバマ」はどうやっても真にならないが「ここはニューヨーク」なら真にできるという感じ。

2011-06-28 17:54:58
ふかくさ @fukaxa

「ある事物がそれ自体として表現であるかないかに関係なく、それをある特定の場所に置くことが、特定の存在を指示するための目的的な行為となり、そこから一つの表現になっている場合……これらを〈場の表現〉とよぶことにしよう」 http://bit.ly/l8fcnq #inbook

2011-06-28 18:32:37
ふかくさ @fukaxa

「観念論的な表現論では理論的にこれ〔〈場の表現〉〕を認めることができない。なぜならば、〈場の表現〉はそれ自体表現主体から独立して存在する物質的な表現として、……物質的な場所における存在と客観的にむすびついているからである」 http://bit.ly/l8fcnq #inbook

2011-06-28 18:36:34
ふかくさ @fukaxa

「〈場の表現〉を認めるためには、表現主体および表現を理解する主体から、独立して存在する客観的な物質的な世界を認めることが不可欠なのであるが、観念論はこの客観的な物質的な世界を認めようとはしない」 http://bit.ly/l8fcnq #inbook

2011-06-28 18:38:06
ふかくさ @fukaxa

言語学と記号学 by 三浦 つとむ http://t.co/TDapQev

2011-06-28 18:39:10
ふかくさ @fukaxa

三浦つとむ師匠の文章にも或る種の仮想敵の想定があって、それは大体何らかの哲学的言説である。だからそれに相当するものを間にかませて解釈できないとアタマの悪い深草には「なんだか常識的なあたりまえのことを例をあげて言っているだけだなあ」で終わってしまって意味が立ち上がって来ない。

2011-06-28 18:48:15
ふかくさ @fukaxa

レトリックに長けた観念論者の永井均氏が「私」や「今」や「現実」を扱っても「ここ」を扱わないのは、「ここ」が三浦つとむ師匠の言う〈場の表現〉の一種だからだろう……と思っている。

2011-06-28 18:58:27
ふかくさ @fukaxa

むしろ「私」が入れ替え可能とか「今」が入れ替え可能という実際には不可能な想定が、立ち位置の入れ替えや姿勢の入れ替えという実際に可能なことでたとえられて理解されているのだろう。

2011-06-28 19:07:33
@cncrscnc

〈場の表現〉…並び立つことが不可能な唯一無二のもの「たち」の比較を可能にするのが、場(!?)。ホワイトヘッドなら「延長的結合」、レヴィナスなら「正義」に当たるのかなぁ。

2011-06-28 19:51:18
@cncrscnc

というか、そういう、あらかじめ唯一性が抜き取られてしまった地点からしか、永井的に言えば〈私〉が「私」に転落してしまった地点からしか、哲学は始められないし、哲学が終わったときに立ち戻らざるをえない地点も、そこでしかない。

2011-06-28 19:55:55
@cncrscnc

観念論は、観念「論」でしかないのであって、〈観念論〉がほんとうに言いたいことは、そこからは逃れ去っているのでなければならない。

2011-06-28 19:58:38
ふかくさ @fukaxa

〈場の表現〉は三浦つとむ氏の用語でこういう哲学的な意味はないことを付け加えておく。 QT @cncrscnc: 〈場の表現〉…並び立つことが不可能な唯一無二のもの「たち」の比較を可能にするのが、場(!?)。ホワイトヘッドなら「延長的結合」、レヴィナスなら「正義」に当たるのかなぁ。

2011-06-28 19:59:11
@cncrscnc

@goodmad なるほど…なんかおもしろそうな概念で、妄想がふくらみました!

2011-06-28 20:03:15
ふかくさ @fukaxa

@cncrscnc これの典拠は三浦つとむ〈1911-1989)著『言語学と記号学』(1977)なので必要なら参照して下さい。山カッコがついている用語ですが永井均氏の所説とは無関係です〈むしろ永井氏が学生時代に三浦つとむにハマっていた〉。

2011-06-28 20:06:31
ふかくさ @fukaxa

@cncrscnc 三浦氏は市井の言語学者で哲学には否定的であり、私はその信者なので三浦氏の用語について誤った解釈を広められるのは困ります。

2011-06-28 20:08:00
ふかくさ @fukaxa

他のことならまだ寛容な気分になれるが……。

2011-06-28 20:14:29
@cncrscnc

@goodmad ありがとうございます!〈永井均がだれかに〈ハマる〉なんて、あるんですねぇ…〉

2011-06-28 20:09:40
@cncrscnc

@goodmad すいません…ただの妄想なんで、まだ誤った「解釈」にさえもなってないんで。いつか読んでみます!

2011-06-28 20:20:25
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

「ここ=これ」の系列は、他の指標詞と異なり、目の前の具体的な事物への指示を伴って用いられることが多い、という論旨だったと記憶しています。 RT @goodmad ジェイコブ氏が「今」や「私」などと「ここ」との違いを指摘していたのだが、それがイマイチ理解出来ておらんので

2011-06-29 00:16:17
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

「2011年6月26日河原町丸太町」みたいな感じで、時空は「今ここ」として一体に考えた方がいいかも知れません。何故なら「ありうる」は時間様相を含んでいるから。 RT @goodmad 「ここ」は「私」や「今」や「現実」と違って実際に入れ替えてさらにまた戻してみせたりもできるから、

2011-06-29 00:24:03
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

「ここ」が〈場の表現〉に入るのかなあ? 文字通り取ると、「何らかの事物を特定の場所に置くこと」だから、パン屑を落として行って道の目印にするようなことに読めるけども。 RT @goodmad http://t.co/jEPPKyo

2011-06-29 00:36:58
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

「時間」は片道切符だけど、それは同一地点でありうる。「空間」は往復可能だけど、それは同一時点ではありえない。「時空」は「視力」のアナロジーで語られうるものを介して直接に到達可能なものを含んでいるが、「私」や「世界」にはそうした位置を占める能力がない。

2011-06-29 00:49:53
谷口一平 A.k.a.hani-an @Taroupho

いや、本当にそうした能力がないと言えるだろうか? 一つ可能性が残されているとすれば、それは「想像力」。「私」からの想像可能性が、「他人たち」や「可能世界たち」の上に遠近法(距離)を与えている……?

2011-06-29 00:53:47