アイヌ民族の形成

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熊猫さん🐼🐷🐶🐻🐉🇵🇸 @xiongmao53

13世紀頃にアイヌ文化が成立するまでアイヌは存在しなかったという者がいる。確かに現在に続くアイヌ伝統文化が成立し、それが全道に広まったのはこの時期であり、アイヌ文化の成立をもってアイヌ民族が形成されたと言うべきだろうが、当然のことながら、そのアイヌ民族はそれ以前の北海道住民➡

2019-08-13 19:23:27
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(北海道縄文人→続縄文人→擦文文化人)と無縁な存在ではなく、むしろ遺伝的にも文化的にも、その延長上にあったことは間違いない。 それで言うと、現在に続く日本(和人)の伝統文化が形成され、それが全国に広まったのは南北朝〜戦国にかけてのことであるから、アイヌ民族同様、大和民族の成立も➡

2019-08-13 19:26:15
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この頃であるとしか言いようがなく、筆者などはむしろ大和民族の成立はこの頃と言うべきだと考える。当然のことながら、その大和民族はそれ以前の「日本」の住民と無縁であったどころか、遺伝的・文化的にその延長上にあったのである。

2019-08-13 19:30:21
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つまるところ、民族としてのアイヌが形成されていないことを以て、《アイヌがアイヌ文化期以前にはいなかった》というのは、大和民族の未形成をもって、南北朝〜戦国以前に和人はいなかった、と言っているのと同じだということである。

2019-08-13 19:35:00
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実際、大和文化の原型自体は少なくとも「日本」国号国家(律令国家)が成立した頃から都の貴族の間で形成され出したろうが、それが現在に続く伝統文化となると、形成されたのは室町ぐらいでしかないし、全国に広まったのも戦国期である。

2019-08-13 19:41:48
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実際、アイヌと琉球を除く日本列島住民、例えば蝦夷・熊襲・隼人などの古代民族が完全に同化されたと言えるのは少なくとも、東北北端までが「日本」の支配領域となる平安末から鎌倉始め以降としか言いようがないだろう。

2019-08-13 19:44:42
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実際、山形県の離島で発見された平安期の人骨には縄文人の特徴があったと言うし、九州北部の家船(えぶね)漁民は近代になっても抜歯と刺青を行っていたという。 それで言うと、平安期までは(少なくとも律令国家成立までは)《和人》ではなく【倭人】と呼称すべきかもしれない。

2019-08-13 19:55:00
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後、アイヌと大和の違いで言うと、北海道が続縄文以降(弥生期に当たる)、近代の和人の入植に到るまで大規模な渡来の波がなく(オホーツク文化の影響は無視できないが限定的)、基本、北海道縄文人がアイヌへとつながっていったのに対し、大和の場合、弥生以降、大陸から大規模な農耕民(弥生人)の➡

2019-08-13 20:34:21
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渡来があり、縄文人は完全には駆逐されなかったものの、現在、大和民族のルーツの大部分は列島にはなく大陸にあると言うことである。

2019-08-13 20:36:11
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話をアイヌに戻して、擦文文化からアイヌ文化への移行=アイヌ民族の形成について書きたいのですが、自分の中でよくまとまりません。 単に擦文文化とオホーツク文化が融合することによってアイヌ文化が形成され、それが全道に広がったで済まして良いのかもしれませんが。

2019-08-13 20:39:07
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上の連ツイが拠った『いま学ぶアイヌ民族の歴史』(2018)であるが、アイヌ文化の成立過程について、「社会経済的な変化のみでなく、世界観と結びつく精神文化における伝統文化の変化を明らかにすることも重要」と書いているのが、確かにイオマンテ発生と普及などはアイヌ民族形成の重要な指標に➡

2019-08-14 08:40:43
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なるだろうが、ただやはりイオマンテのような儀礼=精神文化の発生は社会経済的な変化の反映物であると考える。上の本を読んでいても、本州からの鉄製品の獲得による生活様式の変化(当然、生産力も発展)以外に、も一つピンとこない。確かに、イオマンテの発生などは擦文文化とオホーツク文化との➡

2019-08-14 08:44:04
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融合の結果と言えるかもしれないが。  もう少し関連書籍を入手して詳しく調べてみることにする。

2019-08-14 08:44:42

【その2 擦文文化成立まで】

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【擦文文化成立まで】 弥生時代)寒冷な北海道には普及せず、縄文文化が継続(続縄文時代)。※続縄文時代前半は本土の弥生時代に相当。 3〜4世紀)地球規模の寒冷化により、青森まで達していた稲作前線が後退。代わって続縄文文化が東北地方に南下。※続縄文時代後半は本土の古墳時代に相当。

2019-08-18 15:25:10
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5世紀)中央部からの集団移住を伴う古墳文化が東北南部へ拡大。南下していた続縄文文化と接触交流。 7世紀)東北北部の続縄文人が南からの古墳文化の影響を受けて独自の蝦夷文化を成立させる。 ※蝦夷はアイヌか和人かという論争があったが、独自の古代民族と見るべきか。東北の続縄文人が➡

2019-08-18 15:27:44
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6世紀末〜7世紀初)このような南からの蝦夷文化の強い影響を受けて、北海道中央部から西南部において擦文文化が成立。擦文文化はその住居や土器製作の伝統において、蝦夷文化の影響がみられ、それ以前の「続縄文文化」の生活様式とは大きく異なる。狩猟採集に加え雑穀栽培も行うようになる。

2019-08-18 15:31:46
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訂正: 稲作と馬飼など一定の古墳文化を受容しながらも、狩猟は依然重要な生業。言葉もアイヌ語系? 7世紀末には蝦夷文化を持つ集団の一部が北海道へ移住(9世紀頃まで継続)。これら集団は北海道式古墳(江別古墳など)や竃付きの竪穴住居など新たな文化を北海道に持ち込む。 twitter.com/xiongmao53/sta…

2019-08-18 15:47:41
熊猫さん🐼🐷🐶🐻🐰 @xiongmao53

一定の稲作と馬飼など一定の古墳文化を伝えながらも、狩猟は依然重要であり、言葉も倭人とは違った(アイヌ語系?)。 7世紀末には蝦夷文化を持つ集団の一部が北海道へ移住(〜9世紀頃まで継続)。これら集団は北海道式古墳(江別古墳など)や竃付きの竪穴住居など新たな文化を北海道に持ち込む。

2019-08-18 15:30:12
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一定の稲作と馬飼など一定の古墳文化を伝えながらも、狩猟は依然重要であり、言葉も倭人とは違った(アイヌ語系?)。 7世紀末には蝦夷文化を持つ集団の一部が北海道へ移住(〜9世紀頃まで継続)。これら集団は北海道式古墳(江別古墳など)や竃付きの竪穴住居など新たな文化を北海道に持ち込む。

2019-08-18 15:30:12
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※それでも擦文文化はやはり続縄文文化の後身であり、続縄文人が蝦夷文化との交流の中で作り上げた文化(工藤雅樹)。 10世紀以降)擦文文化は、北海道西南部から中央部から、北部や東部にも拡大、沿岸部でオホーツク文化集団と接触。文化的・遺伝的に融合しながら北海道全域に広がる。

2019-08-18 15:33:02
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擦文文化は、その文化圏を拡大させると同時に、和人との交易によって鉄器、陶磁器、漆器などを入手し、伝統的な生活文化を変容させていく。特に農具や工具、武器などの鉄製品は、その生活様式を大きく変化させる。※擦文文化の社会生産力の上昇。

2019-08-18 15:34:22
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鉄鍋等、調理器具の変化により住居構造も変化。竃付き竪穴住居→炉付き平地住居。このような住居は北海道各地へ広がり、後のアイヌ文化の伝統的家屋であるチセの原型となった。 参考) 加藤博文他編『いま学ぶアイヌ民族の歴史』(2018)。 工藤雅樹『エミシ・エゾ・アイヌ』。ff-ainu.or.jp/about/files/se…

2019-08-18 15:38:13
いま学ぶ アイヌ民族の歴史

加藤博文,若園雄志郎

【その3アイヌ民族の形成】