あるアイヌ先住民族「否定」論者の残念な「引用」(2)

最初、否定論者のtwのスクショを使ったところ、彼に通報されて、最初NAVERまとめが非標示にされたので、名前を伏せて作っています(笑)。
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【悲報】アイヌ先住民族「否定」論者 菊池徹夫早大名誉教授が《擦文文化がアイヌ文化の母体である》ことに疑義を示したと主張するも、氏の所論は《従来の通説の論理的枠内でのオホーツク文化の重視》

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菊池徹夫早大名誉教授が《擦文文化がアイヌ文化の母体である》ことに疑義を示したかのように主張するTWがあったが、菊池氏の所説は《従来の通説の論理的枠内でのオホーツク文化の重視》であることは菊池氏の著書を読めば明白。

2020-01-05 06:47:36
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《従来の通説》とは、アイヌ文化の「原型」は擦文文化だというもの。 以下、北海道・東北史研究会『海峡をつなぐ日本史』(1993)収録の菊池徹夫『土器文化からアイヌ文化へ』より引用。

2020-01-05 06:49:30

《いずれにせよ、繰り返しますがアイヌ文化の「原型」は擦文文化ではなくて、オホーツク文化だけだ、などと申し上げるつもりは毛頭ないのです。事実はそうした二者択一的なものではおそらくないでしょう。でないと、アイヌ文化に見るいわゆる「南方的」要素も説明しにくくなります。ただし、オホーツク文化がアイヌ文化の「原型」の一部だとは思っているのです。
 その意味では、私の論旨は、確かに岸さんのご指摘のとおり、「従来の通説の論理的枠内での、せいぜいオホーツク文化の重視といったことに過ぎない」のかもしれませんただ、例えば渡辺仁先生や藤本強さんなどごく一部の研究者を除いては、「従来の通説の論理的枠内」では「オホーツク文化の重視」は、具体的な形ではほとんどなされてこなかったことは事実ですから、私の立場が「せいぜいオホーツク文化の重視といったことにすぎない」との一言で片づけられてしまうのは、正直いって少し残念な気がします。》

※北海道・東北史研究会『海峡をつなぐ日本史』(1993)所収の菊池徹夫『土器文化からアイヌ文化へ』46〜47頁。

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なお、菊池氏自身は当時《従来の通説の論理的枠内ではオホーツク文化の重視は殆どなされてこなかった》ことを指摘。

2020-01-05 06:59:35
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ある「論者」などは、菊池氏の著者を長々引用。氏が挙げた、アイヌ文化中の擦文文化よりむしろオホーツク文化との間に関連性が認められる要素を抜き書くも、論文の最後の部分はスルー。以下、彼がスルーした菊池氏の所論を引用。

2020-01-05 07:02:10

《アイヌ文化の少なくとも一部は、むしろオホーツク海沿岸地帯で、オホーツク系文化と擦文系文化とが接触する中で形成されていったとみるべきなのではないだろうか。》

※北海道・東北史研究会『北からの日本史第2集』(1990)所収の菊池徹夫『アイヌ史と擦文文化』275頁。

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他にも菊池氏の1999年の講演での所論は、擦文文化がアイヌ文化の大きな構成要素であることを決して否定していない。 ff-ainu.or.jp/about/files/se…

2020-08-10 15:47:45

《じゃあ、擦文文化の方は何もアイヌ文化に影響を与えてないのか、あるいは伝統的に続いてないんかというと、そんなことはないと思います。やっぱりあると思います。だから擦文かオホーツクかどちらかという択一的なものではなくて、かなり複雑に、擦文からオホーツクからも伝統が引き継がれていって、それらが混合する形で野津のアイヌ文化は出来上がったのだろう。》

上PDF85頁。

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更に重要なのは、菊池氏がオホーツク文化人が擦文人に駆逐もしくは吸収されたと主張していること。つまり、アイヌ文化中のオホーツク要素と言っても、既に擦文時代に取り込まれたものだという主張。以下、前掲の『土器文化からアイヌ文化へ』より引用。

2020-01-05 07:07:10

《この北方系狩猟民の文化は、その起源から、一貫して樺太との交渉が強かったが、モンゴルの樺太侵入の前後から急速に勢力を失い、道東において、一部は断然優勢な擦文文化に吸収されて衰退し、あるいはその圧倒的な影響下に、いわば"擦文化"され(トビニタイ文化)、さらに一部は駆逐される形で千島列島方面へ移動していったらしい。》

※北海道・東北史研究会『海峡をつなぐ日本史』(1993)所収の菊池徹夫『土器文化からアイヌ文化へ』43頁。
※「この北方系狩猟民」とは当然、オホーツク文化人のこと。

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擦文人のオホーツク文化吸収について、菊池氏は、和人との交易のためより多くの蝦夷産品の調達に迫られた擦文人(当時かなり農耕化が進んでいた)が、当時なお優れた狩猟漁猟技術を保持していたオホーツク文化人から、そのノウハウを吸収したのではないか、としている。

2020-01-05 07:09:25

《いずれにせよ彼らは農耕的な色彩の強い擦文人とは異なる、本来的に優れた狩猟・漁労・採集民であり、また活発な交易民であった。本州(和人)との交易のため、より多くの"蝦夷産品"調達の必要に迫られた擦文人(ないしその後裔)たちが、こうしたオホーツク文化系の人々の保持している、いわば生業のノウハウを見逃すはずはないであろう。》

※北海道・東北史研究会『海峡をつなぐ日本史』(1993)所収の菊池徹夫『土器文化からアイヌ文化へ』43頁。

擦文文化からアイヌ文化への連続性が具体的に解明

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1993年発行の北海道・東北史研究会編『海峡をつなぐ日本史』なんて30年近く前の本の記述を「引用」して、擦文文化とアイヌ文化との連続性を否定しようとしても、全く話にならないよ。第一、それらの本は21世紀以降の厚真町での発掘成果を全然反映していないのだから(笑)。 matome.naver.jp/odai/215780524…

2020-01-26 20:43:20
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【擦文文化からアイヌ文化への連続性が具体的に解明】 かつて「ミッシングリンク」とされてきたものが解明されている。 蓑島栄紀『北海道胆振地方厚真町の発掘成果からみた古代~近世アイヌ史』 web.alcd.tw/uploads/2019/0…

2020-01-05 08:30:49

《この上幌内モイ遺跡や、付近のオニキシベ4遺跡など、厚真川上流域の発掘成果が明らかにしたもう一つの重要な事実は、「擦文文化」後期の遺構・遺物(12世紀頃の住居跡など)と、初期の 「アイヌ文化」とされる遺構・遺物(13世紀頃のチセ跡など)との共通性がいくつも見いだされ、 また、両者がほとんど断絶なく連続的に確認された点である。従来、「擦文文化期」から「アイヌ文化期」への移行過程については、具体的な情報が乏しかった。それゆえ、両者が連続することを示した厚真町の発掘成果は、「擦文文化期」を「アイヌ史」の一部としてとらえるうえできわめて大きな意義を有するといえる。》

※蓑島栄紀『北海道胆振地方厚真町の発掘成果からみた古代~近世アイヌ史』3〜4頁。

後、読売新聞2018年1月1日の関連記事から。

《アイヌ文化の成り立ちについては資料が乏しく、よく分かっていなかった。今回の成果はその「空白」を埋めるもので、札幌国際大学の越田賢一郎・縄文世界遺産研究室長は「擦文からアイヌ文化への変遷を一地域できちんと追えるのは大きな収穫。他の地域の発掘成果とも総合することでアイヌ文化の成立の解明につながる」と評価している。》

※読売新聞2018年1月1日記事。『アイヌ文化萌芽 擦文期に 厚真遺跡調査 10~11世紀 儀礼源流=北海道』。

リンク note(ノート) アイヌ文化の萌芽が擦文期に芽生えていたことが厚真町での遺跡調査によって判明したことを伝える読売新聞の記事|熊猫さん|note アイヌ文化萌芽 擦文期に 厚真遺跡調査 10~11世紀 儀礼源流=北海道 2018.01.01 東京朝刊 北海道厚真町の厚真川上流域で行われた15年にわたる発掘調査で、13世紀頃に始まったとされるアイヌ文化期の萌芽(ほうが)が、約200年前の擦文(さつもん)文化期に芽生えていたことが分かった。共通する習俗が複数確認されたためで、研究者らはアイヌ文化の成立過程の解明につながる成果として注目している。 発掘されたのは22遺跡。このうち、上幌内モイ遺跡では、10世紀後半から11世紀前半の擦文文化期の段階で、後の
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2019年時点で、瀬川拓郎が『考古学講義』(北條芳隆編 筑摩書房2019)所収の彼の論文で、次のように断言したのも理由がないことではない。 note.com/xiongmao53/n/n…

2020-01-05 08:45:30

《北海道の考古学的文化は連続的に変化してきた。つまり縄文時代以降、北海道では続縄文文化(弥生・古墳時代)、擦文文化(奈良・平安時代)、「アイヌ文化」(鎌倉時代以降)へ遷移したが、この間に断絶は見られない。また続縄文ー擦文時代には異民族集団のオホーツク人がサハリンから道北・道東に南下し、様々な影響を及ぼしていたものの、ヒトの入れ替わりはなかったと考えらえている。》

※瀬川拓郎『アイヌ文化と縄文文化に関係はあるか』(北條芳隆編『考古学講義』2019所収)86頁。