
機能美で満ちた作品に埋れて、機能美が意味をなさなくなるまで生きて、満足いったら200年後とかもしかしたら俺は死んでしまうかもしれない。
2011-07-06 18:10:52
@hotaro あれ!ちがう!不思議!ちょっとまってね、えっと、俺の「アート」の定義は、ある程度まとまった方向性を持ったものをその物質やものごとの機能と表現するとしたときに、そこに機能美があるもののことだと思う。
2011-07-06 18:20:18
@hotaro その機能美がわかる人にとっては紛れもなくアートであって、昔の評価されていない頃の晩年のピカソの絵なんかは当時の人たちにとってアートではなかったと思う。
2011-07-06 18:21:07
@wato_d なるほろ。 アイム、アートの定義なんて考えた事がなかった…。客観的に見て優れているもの、とか(でもこれを判断するのは難しい)自分が好きなもの、とか、後者はマイベスト(いやそれもまた違うって話に…)終り
2011-07-06 18:25:09
「その機能美をわかる人にとってはアート」になっとく。ある程度受け手に一定以上(量はそれそれ)の知識が求められていて、それを咀嚼した時に良いだったり美しいだったり感じればアートなのかしら。
2011-07-06 18:28:11
@hotaro それはわしの考えじゃよ。仮に飽きる要素と飽きない要素が同時にあったとするじゃん。もしそこから飽きる要素だけを取ることができたら、楽しませるとか素敵だと思わせるという機能がより優れたものになると考えておるのじゃ。
2011-07-06 18:32:09
@wato_d 変な事言うけど許ちて。「つまらない音楽」が5回聴いたら飽きるとして「いい音楽」が500回聴いたら飽きるとする。前者は飽きる要素が多いからすぐ飽きる。後者は逆で少ないから飽きない。飽きないのは優れているからアートでも500回聴いたら飽き(私がこの文を書くことに飽きた
2011-07-06 18:40:24
@hotaro うんうん、それでいいと思う。例えばいつだってピカソの絵は素晴らしいかもしれないけど、長く見ていたら見方が変わって他にもっと好きだと感じる絵が出て来てもいい。価値は動くから価値であって、人間が判断するから相対的であって、それで十分なんだと思ってる。
2011-07-06 18:43:41
芸術(アート)が何かわからなくなってきた。制作者と鑑賞者の双方がいて初めて成立する一種の《術》であることは自明に思える。ではその所在は制作者にあるのか、鑑賞者にあるのか、それとも間の「場」にあるのか、あるいはそれらを包括するものがアートの所在なのか。
2011-07-06 18:47:37
@ura_Q 製作者が「これはアートなんやで」って言うだけじゃ無理ぽそうだから鑑賞者が「これアートでんな!!!」って言って製作者が「せやろ!!!!」って言った時にアートになるんだと思いましただから「場」が近い二一票
2011-07-06 18:50:28
@wato_d @hotaro あ、いちおう僕の考えではその場合も含んでいます。制作者≠鑑賞者であることは求めていません。制作者∈鑑賞者となるケースが大半で、完全に制作者=鑑賞者となるケース(鑑賞者が制作者のみ)というのは稀だろうけれど、それも含めていいと思う。
2011-07-06 18:55:34
けっきょく考えはうまくまとまらないのである。「これがアートだ」と思って作品を制作する人がいて、あるいは「これはアートだ」と作品を鑑賞して感じる人がいれば、それでアートになるんじゃないですか。制作者と鑑賞者の存在以外に、アートの条件は一般化できない。
2011-07-06 18:58:31