【追加あり】「薩摩・島津の捨てがまり」が言われ出した起源の考察
山田風太郎先生の『柳生忍法帖』(初出:1962~1964)で、沢庵和尚の弟子たちが芦名衆の追撃を食い止めるために「捨てがまり」を決行する場面があるけれども、連載中からあったのかな。 twitter.com/kirinosakujin/…
2020-09-25 23:13:25司馬氏がどこから引いてきたかは小説なので不詳。この小説は1960年代『週刊サンケイ』に連載された。目に付く限りではこれが初見か。次いで立石定夫氏『関ヶ原決戦記』(新人物往来社、1984年)に「島津の軍は終始乱戦の中にあった。島津はここでステガマリ戦法に出た。薩摩特有の戦法である」
2020-09-25 21:14:36@kirinosakujin 少しでも先生のお役に立てたようで嬉しいです。先ほど海音寺さんが関ヶ原について書いた古い短編小説(男一代の記、昭和26年)も確認してみましたが、そこには「島津の退口」とだけあり、「捨てかまり」の記述はありませんでした。一体何が典拠なのか、気になりますね。
2020-09-25 23:18:02山田風太郎著『柳生忍法帖』下巻 つたえきく、豪勇薩摩軍の撤退戦は「捨てかまり」といって、小部隊がふみとどまっては全滅を賭して、銃火をあびせ、また一部分伏せては狙撃し……(中略)……いま沢庵門下の坊さまたちは、知るや知らずや、この決死の「捨てかまり」戦法をとっているのであった。
2020-09-25 23:21:18検索すると、『海音寺潮五郎全集』第11巻収録の「西郷隆盛」に「捨てかまり」という言葉が出てくるようで、これはWikipediaによると昭和36年(1961)から38年(1963)にかけて「朝日新聞」に連載されたとあるので、どっちが先だろうか?
2020-09-25 23:46:11@noimago 同書に「座禅陣」は載っていますが、「捨てかまり」はありませんね。ただ、この退き口のくだりはけっこう創作入っています。義弘没後300回忌に刊行されたので、鹿児島を中心に一般には流布したでしょうね。
2020-09-25 23:49:07海音寺潮五郎のほうが初出は早そうだが、海音寺潮五郎だとしたら典拠がありそうなんだよなぁ。本を探しに行こう。さがしに行かないか さがしに行かないか あこがれの(以下略)
2020-09-26 00:12:02平山先生が話題にしてるすてかまりが話題になってるみたいだけど司馬遼太郎著「関ヶ原(1964年)」のすてかまりは海音寺潮五郎が1961年に雑誌「世界」で連載した「史伝西郷隆盛」の第1話に登場する島津の"捨てかまり"に司馬遼太郎が影響を受けたんじゃないかと思うんだけど違うのかな… pic.twitter.com/5NaQHwFMuK
2020-09-26 00:12:18あっ!やはり同じようなご指摘をされてる方がいらっしゃった…! twitter.com/ishin_saigou/s…
2020-09-26 00:27:521959年に東京新聞夕刊で連載された「二本の銀杏」(海音寺潮五郎著)に島津義弘による"捨てかまり"の記述あり。 司馬遼太郎はこの海音寺潮五郎著の「二本の銀杏」に感銘を受けたようです。 pic.twitter.com/geK7WYdlcC
2020-09-26 08:22:551933年の大阪毎日と東京日日新聞に連載された直木三十五の「武勇傳雑話」の頃には既に"すてがまり"と云う言葉は用いられていた例があり海音寺は直木氏に影響を受けた可能性が有る。 直木氏による創作で無ければ"すてかまり"は大正の頃まで遡れる可能性もありそう。 twitter.com/ujito2020/stat… pic.twitter.com/LOAnmIPLyA
2020-09-26 11:53:02此れが初出かは判らないものの平山先生の「甲陽軍鑑」の"すてかまり"(からの変形)説が的を得たものであった事にニヤリとしてそう😆(文中はすてぜう) "かまり"についてはちょっとまだあやふやなので「戦国の忍び」で復習してこよう。 twitter.com/ujito2020/stat…
2020-09-26 19:47:29江戸時代の捨てがまり 文化十年(1813年)の軍記小説「関ヶ原軍記大全」による捨奸(すてがまり)による使い方。 甲斐の信玄が名付けて捨てがまりとつけたと云う煽り文言を用いて島津義弘の捨てがまりを説明。 此れより以前もあるかも知れませんが甲陽軍鑑から引用して島津義弘に用いられた例として…。 pic.twitter.com/wbXrqfvgeu
2020-09-26 16:04:44広告代わりにステッカーを配っていたが、余ってしまったので、通る人達の目について、足を止めるよう、壁に大量に貼りまくった、この「ステッカー余り」が転じて「捨てかまり」になったことは現代創作であることは間違いないと識者は語る。
2020-09-26 00:22:47「捨てがまり(捨てかまり)」について、司馬遼太郎は海音寺潮五郎の使用例に習ったのではないか説が出てきた。 現代の作家が司馬遼太郎作品の記述を信じて書いてしまうように、司馬遼太郎も先輩作家の記述を信じた可能性はあるか。
2020-09-26 00:48:31@kirinosakujin @ishin_saigou Googleブックスで調べてみたところ、海音寺潮五郎全集の9巻:二本の銀杏(1969)p74、同11巻:西郷隆盛(1969)p32、同21巻:史論と歴史随筆(1971)p283に「捨てかまり」が出てくるようです。いずれも島津の話。11巻が粒山様のご指摘の作品ですね。初出までは調べられず。
2020-09-26 04:13:05「捨伏(すてがまり)」が登場する、直木三十五の『関ヶ原』。dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid… これは昭和7年に春陽堂から刊行された版だが、前年の昭和6年に早稲田大学から刊行されているようなので、できればそちらも確認したい。
2020-09-26 07:21:32mmさんのツイートを拝見し、またさらに閃きました。おっしゃるとおり、海音寺作品には「捨てかまり」の記述が散見できますが、挙げて頂いた中で初出が最も古いのは海音寺潮五郎の名著『二本の銀杏』です。同作品は昭和34年から36年に東京新聞に連載されたもので、『史伝 西郷隆盛』よりも古いです。 twitter.com/mmhinoeuma/sta…
2020-09-26 07:50:33また、ご指摘頂いた海音寺潮五郎全集21巻『史論と歴史随筆』の中に、「史談うらからおもてから」として、「島津の関ヶ原退陣と後醍院」というエッセイ(実際はインタビュー)が入っていますが、これは昭和37年に出た『実説武侠伝』からの転載ですから、これも『史伝 西郷隆盛』よりも後になります。
2020-09-26 07:57:29@mmhinoeuma @kirinosakujin mmさんのツイートを拝見し、またさらに閃きました。おっしゃるとおり、海音寺作品には「捨てかまり」の記述が散見できますが、挙げて頂いた中で初出が最も古いのは海音寺潮五郎の名著『二本の銀杏』です。同作品は昭和34年から36年に東京新聞に連載されたもので、『史伝 西郷隆盛』よりも古いです。
2020-09-26 08:00:33@noimago 自分もこれぐらいのものに、島津の兵学に触れたもので見た覚えがあるのですよね。記憶違いかもしれないですが。
2020-09-26 08:01:16