アプリで作成

淺沼圭司『映画美学入門』読書メモ

まとめました。
7
山幹 @0sak1_m1d0r1

淺沼圭司『映画美学入門』読み始めたけど、結構面白い。『カビリア』というローマ、シチリア、カルタゴ、地中海という目まぐるしい場面変更の映画を作る過程でイタリア人は「編集」を知ったとか、セットと俳優を両方"たてる"ためにセット→俳優への移動撮影を知ったとか。

2020-10-20 22:12:26
山幹 @0sak1_m1d0r1

映画は最初はカメラが定点で、日常風景を写したものから芝居・演劇を写し取り保存しておくものだった。

2020-10-20 22:14:02
山幹 @0sak1_m1d0r1

カメラを動かし、画面を結びつける原理は、映画を作る作家の主観のなかにある。描かれるものが客観的現実であり、カメラもそれを客観的に模写するだけであった映画は、グリフィスにいたって完全に主観化されたのである。(続く)

2020-10-20 22:25:39
山幹 @0sak1_m1d0r1

続き)他の何者によっても束縛されず自発的に動くカメラの作り出す世界は、作家の主観の生みだした世界であり、彼の個性にうらづけられた世界なのである。 淺沼圭司『映画美学入門』p57

2020-10-20 22:27:14
山幹 @0sak1_m1d0r1

機械→見世物(娯楽)→芸術(映画)の流れ。

2020-10-20 22:28:40
山幹 @0sak1_m1d0r1

映像は、私たちが主観のヴェールを通して見ていたものを、むきだしの姿でしめす。映像は私たちの目に隠れていたものの姿を、あばきだす。映像は「体験現実」あるいは「日常現実」とは明らかに異なった世界をしめすのである。 淺沼圭司『映画美学入門』p67

2020-10-20 22:53:47
山幹 @0sak1_m1d0r1

城壁を額縁に、都市を絵画作品におきかえて考えてみればよい。絵画空間は、外の空間から孤立し、みずからの力で統一を保った独立の性質をもち、他の何物の力も借りず自分の力だけで成り立っている空間なのである。額縁はそうした空間の性質を強めるものといえる。 (淺沼圭司『映画美学入門』p75)

2020-10-20 23:12:10
山幹 @0sak1_m1d0r1

絵画が独立王国的な都市であるなら、写真は開放的な近代都市である。 淺沼圭司『映画美学入門』p79 ジンメルを援用してるけど、すごい鋭い指摘。

2020-10-20 23:35:15
山幹 @0sak1_m1d0r1

絵画→外的空間そのものではなく、画家の心、内的空間が定着している。その過程で外の世界は日常の性格をはぎとられ、変形され、新しくまとめられる。 写真→外的空間の一部をそのまま切り取る。外的空間と直接関係を持つ。写真は、部分の表現からも、絵画と違い、あるまとまった対象、雰囲気を描く。

2020-10-20 23:54:48
山幹 @0sak1_m1d0r1

たしかに絵や彫刻、あるいは建築は、それ自身としては時間の流れから取りだされている。しかしそれがほかならぬ美しいもの一美的対象となるためには、鑑賞者との間に成立つ時間の流れのなかに組み入れられなければならないのである。 (淺沼圭司『映画美学入門』p89)

2020-10-21 00:24:19
山幹 @0sak1_m1d0r1

映画には「現在形」しかない。よって「過去である」きっかけ、目印が必要。メモ

2020-10-21 00:40:00
山幹 @0sak1_m1d0r1

音楽は、そして同じような点で演劇は、純粋に現在の芸術である。しかし映画は、……たしかに現在の装いは持ってるいるが、すでに作られくりかえされるという点で、純粋に現在の芸術ということは、ははわかられよう。いうならば、それは現在化の芸術であろうか。 淺沼圭司『映画美学入門』p99

2020-10-21 00:44:40
山幹 @0sak1_m1d0r1

主観一映像一表象一対象という関係は<主観一映像≒表象≒対象>、と書きなおされるだろう。つまり、観客は、具体的対象をあたかも直接感じとっているかのように思うのである。 淺沼圭司『映画美学入門』p110

2020-10-21 11:22:33
山幹 @0sak1_m1d0r1

クローズアップ、さまざまなカメラアングル、移動撮影などの発見により、映像は対象の単なる再現から、しだいにしだいにシンボルとしての性格を帯びたものに発展していく。映画の歴史は、ある意味では、映像=シンボルの成立の過程として考えることもできる。 淺沼圭司『映画美学入門』p111

2020-10-21 11:26:06
山幹 @0sak1_m1d0r1

言語=中心の明確なもの(「家」)、周囲の明確なもの(「白」)があり、結びつく性質がある。いわば柔らかい。 映像=きっちり決められた性質・像がある。ゆえに言葉のように、他の映像と結びついたりしない。

2020-10-21 11:32:33
山幹 @0sak1_m1d0r1

音→そのままでは言葉のように意味を持ちえない。よって描写や表現を捨て、形式的、感覚的な側面を強調する。 映像→再現的。感覚的・形式的な面はあまり明確ではないため、内容的なものが表面にあらわれ、形式的な面は後退する。

2020-10-21 15:07:42
山幹 @0sak1_m1d0r1

映画によって表現される空間と時間の性質を考えると、映画は演劇よりもむしろ小説に近い性質をもっているとかんがえられる。場面転換の自由なこと、複雑で逆光や飛躍の可能な時間の性質、これらは演劇には見いだすことのできない、そして映画と小説に共通のものであった。 淺沼圭司『映画美学入門』

2020-10-21 16:33:20
山幹 @0sak1_m1d0r1

演劇では小道具、大道具はあくまで補足だが、映画では小道具、大道具などのセットがなにかを「演じる」ことがある。

2020-10-21 16:38:14
山幹 @0sak1_m1d0r1

小説家が言葉を使って描写するように、映画作家はカメラによって、映像によって描写するのである。 淺沼圭司『映画美学入門』 p149 かっこいい。。

2020-10-21 16:42:53
山幹 @0sak1_m1d0r1

演劇の身振や装置は、戯曲に書かれた言葉を、話す言葉として具体化するためにある。ここでは言葉がすべての決定権をもつ一「はじめに言葉ありき」である。 淺沼圭司『映画美学入門』p173

2020-10-21 19:02:58
山幹 @0sak1_m1d0r1

ところが1940年に作られた『独裁者』にいたって、チャプリンは突然言葉を発した。この映画には言葉が満ちているといったほうがよいかもしれない。何故か。生きることに対する人びとの善意に満ちた努力だけでは、もはや望ましい結果はえられない。 淺沼圭司『映画美学入門』p175

2020-10-21 19:08:35
山幹 @0sak1_m1d0r1

演劇では言葉が場を決定する。 映画では言葉は場に決定される。

2020-10-21 19:10:08
山幹 @0sak1_m1d0r1

映画のもの音は欠如感(映像は現実を切り取るものなのに音がない!不自然!)を無くすだけではなく、なにかを象徴するときにも使われる。読書メモ

2020-10-21 19:51:28
山幹 @0sak1_m1d0r1

これも前にあげたモランは、映画は言語と音楽のちょうど中間に位置するものだと考え、この二つのものを自由に自分のなかに取り入れることができるといっている。 淺沼圭司『映画美学入門』p199 これは面白い。映画を万国共通の言語だと考えた人もいるらしいし

2020-10-21 19:58:52
山幹 @0sak1_m1d0r1

知覚によってある対象の私たちに対する意味を知ると、私たちはそれに応じて何らかの働きを対象に対して加える一つまり行動する。近くはそれだけで完結するのではなく、それに応ずるある行動をひき起す。こういう点で、知覚は行動のための機関であるなどといわれるのである。 淺沼圭司『映画美学入門』

2020-10-22 15:15:54
残りを読む(7)

コメント

コメントがまだありません。感想を最初に伝えてみませんか?