『信長はイエズス会に爆殺され、家康は摩り替えられた』がどのくらい読むに値しないかを表す一文を紹介しよう。 『惟任退治記』は『信長公記』からの盗用と改作でできている本だ。このことも歴史家の間では通説になっている。(p50) どこの世界の歴史家なのか詳しく知りたいものだ。
2015-12-24 20:33:32【副島本】信長、秀吉、家康の3人が主従(親分と子分)として生きた時代は、合わせて50年間である。わずか50年なのだ。 ①桶狭間の戦い(1560年5月)、②本能寺の変(1582年6月)、③関ヶ原の戦い(1600年9月)で、合計50年間だ。(p1)
2015-12-24 22:17:05【副島本】家康は、まだ秀吉の方が強くて主従であったとき、秀吉に2回大坂城に呼び出されて、スキあらば殺されるところだった。しかし家康の周囲を堅めた”家康四天王”のガードが堅かったので生き延びた。この考えは歴史好きたちと私は同じだ。(p18)
2015-12-24 22:35:54【副島本】この時の”関ヶ原での隠された真実”は、イギリス人航海士のウィリアム・アダムズが率いた、当時、世界最新鋭の大砲(カノン砲)の大きな破壊力で勝ったのだ。この時、四天王の一人である、本多(平八郎)忠勝が、家康の本陣(桃配山)からズンズンと、3キロ先へ出て行って、y
2015-12-24 22:42:04【副島本】この軍監の本多忠勝の軍勢の真ん中に密かに隠されていたアダムズの大砲が石田三成勢(西軍)の精鋭部隊を木っ端みじんにしたのである。(p18~20)
2015-12-24 22:43:07【副島本】1615年6月4日、大坂夏の陣で、淀君、豊臣秀頼は自害。秀頼の本当の父親である(秀吉ではない)大野治長もその場で自害した。実の親子3人で一緒に死んだということだ。(p20)
2015-12-24 22:46:35【副島本】信長が(25歳)1559年3月に、京都で将軍に拝謁したそのとき、将軍義輝の側に細川藤孝(のちの幽斎)が、幕府奉公人のひとりとして控えていたのである。(中略)そして、その後ろの方に足軽衆として、藤孝の長年の家来である明智光秀がいたのである(p24)
2015-12-24 23:11:12【副島本】細川藤孝と息子の忠興も隠れキリシタン大名であり相当のワルである。(中略)同じく隠れキリシタン大名の池田輝政の池田氏が備中備後をもらって今の岡山県を支配した。(p27)
2015-12-24 23:18:56【副島本】本能寺の変後、安土にいたオルガンティーノらが琵琶湖の島に監禁されたことに対する文章。どうやら沖島などは目に入らなかったらしいw
2015-12-24 23:36:31【副島本】だから、光秀はこうなったら早く高山右近、中川清秀、堀秀政の”摂津勢”(みなキリシタン大名)に勝利しておこうと考えたのだ。(p52)
2015-12-24 23:54:32【副島本】信長は本能寺で爆殺される一ヶ月前の5月に、安土城に多くの商人(町人)を呼んで、大理石(自目石)でできたアポロの胸像を、「これが私だ。私を拝め」と言った(「八切本」P186)。一体、信長はこのようなギリシア彫刻のアポロ像を、どうやって手に入れたのだろう。(p66)
2015-12-25 00:18:24【副島本】この彌助(1556生)はそんな生やさしい人物ではない。ただのアフリカ人黒人奴隷ではない。「モザンビーク出身」などと最近は書いてあるが根拠はない。彼は、インドのゴアで高い教育を受けた、まさしくインド人の、それなりの家柄の息子で、イエズス会士となるほどに頭脳明晰で、
2015-12-27 22:23:08【副島本】前述した大田牛一の「黒坊主……26、27歳で健やかに器量なり」の「器量よし」とは、後世の「見目が良い」という意味よりも、「知能が高い」の意味である。(p70)
2015-12-27 22:29:03