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きっかけ
2020年11月12日沖縄タイムス
失礼ながら出版が昭和50年代であり、亡くなってる方と思ってた。
11/12沖縄タイムス社会面 昨日から1954年の沖縄刑務所暴動(受刑者の扱いに反抗した暴動、獄中の瀬長亀次郎が最後は止めたという) 識者意見で元沖縄刑務所所長渡嘉敷唯正氏の名前に驚く、この人の著書ある。 ※本は戦時中の沖縄刑務所顛末であり、大変な労作。古本屋で見つけて驚いた。 pic.twitter.com/pCOzq5zOcm
2020-11-12 06:10:12そこで以前のツイートをまとめた(2014年4月28日~5月1日)
戦前唯一の選挙無効判決、その裏側 togetter.com/li/478438 沖縄戦期の2人の沖縄県知事 togetter.com/li/478043 沖縄戦、シュガーローフの戦い togetter.com/li/481573
2014-04-28 22:22:15沖縄とて最早、他人事ではなく軍の陣地構築が始まっていた。 特に飛行場建設に多くの県民が駆り出され学生から大人まで作業に加わった。
2014-04-28 22:33:2160名の受刑者が小禄飛行場(現在の那覇空港)建設に従事していた。「こういう非常時に国に報いることこそ罪を償い、更生する道に通ずるものである。」と訓示されていた受刑者達の‘士気’は高かったという
2014-04-28 22:39:50作業は厳しく危険な仕事もあったが受刑者は率先してこれに当たった。一応は受刑者なので作業には刑務所職員が‘戒護’に配置されていたが彼等の身の安全を考えなければならず常にヒヤヒヤしていたそうな
2014-04-28 22:44:52大岩を崩したり、重いトロッコを押したり、高所作業と危険な仕事が多かった。ある日ついに事故は起きた。崖を崩して掩体壕を建設中に崖が崩落して一人の受刑者が生き埋めになり亡くなった。
2014-04-28 22:49:25職員達は戒護しながらも作業に勤しむ受刑者達を見て「ある程度の緩和」を行っていた。食糧が少ないので埋立をする田んぼからウナギやフナを捕って昼食に食べることを黙認していた。
2014-04-28 22:53:14Nという受刑者の‘腕が良く’ウナギやフナ以外に川エビまで捕ったのでやがてNを「食糧専門」に任命するとその腕で食卓を賑わし、皆を喜ばせた。
2014-04-28 22:57:28飛行場建設だけではなく刑務所職員の応召が増えて20名が戦地に赴いていた。(9名が戦死している)もちろん人員不足で業務にしわ寄せがくる。また妻は夫がいない家を守りつつ子供達の世話をしながら空襲があれば逃げ惑う姿が見られた。
2014-04-28 23:06:32昭和19年7月になると県民の県外への疎開が始まった。(沖縄県知事の時にも触れましたが)その時の様子を仲里達雄刑務所所長の手記「戦時行刑実録」から見てみよう。
2014-04-28 23:13:30七月二十八日、池田検事正と疎開の打ち合わせのとき、同検事正から参謀長の極秘作戦計画を耳にした。即ち『北飛行場から最南端(六〇粁)の全地域は戦場が予想され、一木一草すら残らない。二〇万を疎開させたいが、船がなく五万人しかできない』ということであった。
2014-04-28 23:21:53そこで正木局長、九州各刑務所長に対し、それぞれ疎開の認可援助を打電上申した。他方、乗船については、関係機関に依頼したが、受刑者は断られ、職員家族約二三〇人の乗船だけが認められた。
2014-04-28 23:26:54しかし、同家族は乗船前日に船の遭難等の理由で残念ながら十分の一に減じたが、官舎居住者の全家族は疎開を強制し、八月十六日までに約十五家族が鹿児島に安着、大分刑務支所クラブに疎開した。
2014-04-28 23:31:55主食の皆無から、受刑者の疎開が必要であり、関係機関に強く依頼したところ、受刑者六〇人の乗船が認められ、九月三日鹿児島刑務所に疎開し、狂喜した。
2014-04-28 23:35:08第一回の疎開では 看守長 宮崎義正 看守部長島袋林楷 看守宮平永信 看守山城正敏 看守久場里安 看守宮平智清が護送に当たった。
2014-04-28 23:43:59