昔の女性が別姓のように見える理由について

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ぬえ🦅 @yosinotennin

言い尽くされているとは思うけれど、夫婦同姓制度は1898年に制定されたものでそれよりも前は姓がある者同士の結婚は普通に夫婦別姓なので、婚姻による姓の統一は古来の伝統でもなんでもなく、選択的夫婦別姓を導入したからといって日本はぶち壊れませんね

2020-11-19 08:56:08
ぬえ🦅 @yosinotennin

これも散々言い尽くされてますが 「源頼朝の正室は北条政子」 「足利義政の正室は日野富子」 男女同権だからではなく結婚では女性の出自が問われたからですが…いずれにせよ、この超有名な夫婦は特殊ケースではなく、昔は夫婦別姓でした。夫婦同姓は伝統ではありません

2020-11-19 09:08:09
ぬえ🦅 @yosinotennin

(ちなみに日野富子の両親は日野重政と北小路苗子、さかのぼっても男女に姓がある場合、婚姻による夫婦同姓はない)

2020-11-19 09:13:06
まとめ管理人 @1059kanri

@yosinotennin 「北条政子」「日野富子」は当時の呼び方ではなく、後世の学術用語だと考えて下さい。「苗字」に関しては彼女らは夫の家のものに入っています。

2020-11-19 19:25:39
まとめ管理人 @1059kanri

「北条政子」「日野富子」はあくまで歴史用語であって、歴史的には源頼朝正妻も足利義政正妻も、「北条政子」「日野富子」とは呼ばれておりません。

2020-11-19 19:29:50
リンク Wikipedia 北条政子 北条 政子(ほうじょう まさこ、保元2年(1157年) - 嘉禄元年7月11日(1225年8月16日))は、平安時代末期から鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の正室。伊豆国の豪族、北条時政の長女。子は頼家、実朝、大姫、三幡。兄弟姉妹には宗時、義時、時房、阿波局、時子など。 周囲の反対を押し切り、伊豆の流人だった頼朝の妻となり、頼朝が鎌倉に武家政権を樹立すると御台所と呼ばれる。夫の死後に落飾して尼御台(あまみだい)と呼ばれた。法名を安養院(あんにょういん)といった。頼朝亡きあと征夷大将軍となった嫡男 16
リンク Wikipedia 日野富子 日野 富子(ひの とみこ、永享12年(1440年) - 明応5年5月20日(1496年6月30日))は、室町時代後期から戦国時代前期の女性。室町幕府8代将軍・足利義政の正室。父は蔵人右少弁・日野重政、母は従三位・北小路苗子(北小路禅尼)。兄弟に勝光(兄)、永俊(11代将軍足利義澄の義父)、資治(日野兼興の養子)、妹に良子(足利義視室)。9代将軍・足利義尚の母。従一位。 山城国(京都府)の生まれ。室町幕府の足利将軍家と縁戚関係を持っていた日野家の出身で、義政の生母・日野重子は富子の大叔母にあたる。富子も康正 7 users 45
杉田雅俊 @000627234

@1059kanri 立花ぎん千代もそうなのでしょうか?

2020-11-19 19:31:44
リンク Wikipedia 立花誾千代 立花 誾千代(たちばな ぎんちよ、永禄12年8月13日(1569年9月23日) - 慶長7年10月17日(1602年11月30日))は、戦国時代の女性武将。 大友氏の有力家臣(加判衆)であった戸次鑑連(立花道雪)の一人娘として筑後国山本郡(現・福岡県久留米市草野)の問本(といもと)城にて誕生。名前に含まれる「誾」の字は“慎み人の話を聞く”という意味合いを含めて肥前の僧侶、増吟が名付けた。傅役には、道雪の後妻・仁志姫との仲介を取り持った縁で、城戸知正が命じられる。 天正3年5月28日(1575年7月6日)、 8 users
まとめ管理人 @1059kanri

@000627234 彼女は夫が「立花家」に入っていますので

2020-11-19 19:32:40
杉田雅俊 @000627234

@1059kanri 実家であれば、女性でも家名を名乗れるのですね。

2020-11-19 19:34:09
Dr.古代谷河文明 @tanikabun

@1059kanri 歴史用語でいいなら「細川ガラシャ」ってのがありますしね・・・

2020-11-19 19:33:03
リンク Wikipedia 細川ガラシャ 細川 ガラシャ(伽羅奢、迦羅奢) / 明智 玉(子)(明智 珠(子))(ほそかわ ガラシャ / あけち たま(たまこ)、永禄6年(1563年)- 慶長5年7月17日(1600年8月25日))は、戦国時代から安土桃山時代にかけての女性。明智光秀の三女で細川忠興の正室。諱は「たま」(玉/珠)または玉子(たまこ)。法名は秀林院(しゅうりんいん)。キリスト教信徒(キリシタン)。 子に、於長(おちょう: 前野景定正室)、忠隆、興秋、忠利、多羅(たら: 稲葉一通室)などがいる。 明治期にキリスト教徒らが彼女を讃えて「 10
まとめ管理人 @1059kanri

@tanikabun それも結局後世の人による「記号」ですねー

2020-11-19 19:34:34
笠緒 @kasaooooo

そもそも北条政子の「政子」って官位を得たときに父親の時政の政からとった諱ですよね… それ以前は、恐らく幼名のまま呼ばれ続けた名前があったと思われる… 鎌倉時代の女性の名前は、仏教関係からとった名前多いんだよね 吉祥女とかそういうの twitter.com/1059kanri/stat…

2020-11-19 19:36:40
ののまる @nonomaru116

@1059kanri 「北条四郎時政女政子」「日野(裏松)右少弁重政女富子」ならまだあり得るかもしれませんけど、女子の場合「家名+諱」呼びは実際はまずあり得ませんよね。 同時代的にはどちらも「御台(御台所)」でしょうし。

2020-11-19 19:44:39
まとめ管理人 @1059kanri

@nonomaru116 基本的には、呼び名としては幼名のままだったと考えるのが自然でしょうね。そこも相当に近しい人のみが使える呼び名でしょうけど

2020-11-19 19:47:45
ののまる @nonomaru116

@1059kanri 北条政子は『曽我物語』の一部伝本で「万寿御前」とか「朝日御前」とかの名前が出てきますけど、まぁ呼ばれるならそういう名前でしょうね。

2020-11-19 19:53:37
まとめ管理人 @1059kanri

@nonomaru116 一般的にはそんな感じだったのでしょうねー。時期によって御台様だったり、頼朝死後落飾した後は〇〇尼様、だったのでしょうけど。

2020-11-19 19:58:42
ののまる @nonomaru116

男性が職場で出世するに従い通称や官職名を名乗るのと同じで、女性の場合も出仕していればその家での「候名(さぶらいな)」を名乗るのですよな。妻同然ならば「方名」「向き名」を名乗りますし(義姫の「お東様」のようなの)。あと男性も親しい仲なら幼名や若い頃の通称呼び。 twitter.com/1059kanri/stat…

2020-11-19 20:15:07
まとめ管理人 @1059kanri

@karios_tw 基本的に立場で呼ばれるのは男性も一緒ですね。なので男性でも諱がわからない、という人も多くw

2020-11-19 20:05:51
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