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メモ 稲荷信仰は商業の守り神として京都から江戸に勧請されたが、その土地のニーズ(例えば農業神、土地神、子育て、安産、火災除け)によって、その霊験も多用なかたちをとっていった。
2021-01-09 14:10:35稲荷神は元は農業の神であって、つまり「商業」という産業が本格的に成立するはるか以前から存在した。 (井上満郎『お稲荷さんの正体』p9)
2021-01-09 14:12:55メモ 日本の神は、姿・カタチをとらず、人の目に見えるものに憑依した(「依代」)。山もその対象であり、三角錐形をした山は信仰の対象となり、それを「神体山」と呼ぶ。こうした場合、神の鎮座する神殿を持たずとも山そのものが、すなわち神になる。
2021-01-09 14:19:33伏見稲荷大社の背後にある稲荷山も同じように神体山だったと考えられ、たとえば富士山信仰が縄文時代からあったとされるように、稲荷山に稲荷神社が成立して以後に初めて信仰拠点ができたわけではなかったのだ。 (井上満郎『お稲荷さんの正体』p22)
2021-01-09 14:25:56メモ 稲荷山は、深草遺跡のすぐそばにある。深草遺跡からは、鴨川を利用した水田農業、稲作が行われたことが確認されており、稲荷山の麓では紀元前の時代に人々の農耕生活が営まれていた。木製農具の用材の採取も稲荷山で行われていたと思われる。
2021-01-09 14:37:38渡来人は"外国人"として、つまりは「他者」として日本列島に存在したわけではなく、"在来"の人々とともに歴史と文化を推し進めていった。 (井上満郎『お稲荷さんの正体』p30)
2021-01-09 14:44:01注意しておかなければならないのは、彼ら渡来人の多くは「国家」を背負って渡来してきたのではないということである。なるほど、百済滅亡時こ渡来人は国家の官僚も多かった。しかし、これは特殊例であって、大半の渡来人はごく普通の一般庶民である。 (井上満郎『お稲荷さんの正体』p32) そうなんだ
2021-01-09 14:50:59メモ。 伏見稲荷大社を創建したのは新羅出身の渡来人・秦氏である。渡来一世ではなく、日本の歴史、文化、風俗、習慣に馴染んだ、彼らの子孫が建てた。
2021-01-09 15:18:21まさに秦氏一族全体の氏神だったわけで、彼らの渡来と京都定住以前からあったプレ稲荷信仰のうえに、自分たちの信仰を「重層」させてできたのたのが、伏見稲荷大社というのとになる。 (井上満郎『お稲荷さんの正体』p45)
2021-01-09 15:19:56メモ 「稲荷」は秦伊侶具が稲作で富を経て、驕って餅を的に矢を射かけようとしてところ、餅が白鳥になって飛び去り、稲荷山こ峰に止まり、そこから稲が生えた(イネがナル)ので、これをじんじゃの名として、稲荷とした。
2021-01-09 15:38:52現在の本殿は五社相殿といい、五柱の異なる神々が、棟続きの社殿に一緒に祭られている。これらを総称して稲荷大神というが、社殿の南から北へ四大神、大宮能売大神、宇迦之御魂大神、佐田彦大神、田中大神の五神である。 (井上満郎『お稲荷さんの正体』p69)
2021-01-09 15:59:48メモ 猿田彦大神→降臨してきた天孫(天皇の先祖)の道案内役。「サルタ」は猿の守る田の意味とか、「サ」は神に捧げる稲のことでその稲を調達する田の意味ともいわれるが、よくわかっていない。どちらにせよ田という稔りに関わる要素をもっていて、農耕神から始まる稲荷大神に包摂されるのは自然。
2021-01-09 16:05:45田中大神・四大神→文字通り田の神。この名の神は日本各地にたくさんあり、その広範な分布が稲荷信仰を「町田舎の隅々にまで流伝せしめる力」となったことざ柳田國男によって指摘されている。田中大神かわ主祭神とも言うべき穀霊神の宇迦之御魂大神の摂社であることはふさわしい。
2021-01-09 16:18:41四大神→「四」の大神であるので、恐らく四座を示すが、謎が多い。松尾大社の末社に同名の「四大神社」があり、その祭神は四季を象徴しており、恐らく農業神である。また、朝庭の飲食を司る官庁に「竈神四座」が祀られていることから、四大神をカマド神に類することも出来る。
2021-01-09 16:24:30メモ 伏見稲荷の楼門門前には、狛犬のように神社を守る狛狐がおり、向かって右はタマ(魂、霊魂をしめす)、左はカギ(富の象徴)を咥えている。
2021-01-09 16:28:10稲荷といえば狐だが、狐は日本列島の一部を除いて広く住み、人とかかわりの深い動物の一つだが、山を住処とし、山に坐す神の使い、神使として崇められていた。 (井上満郎『お稲荷さんの正体』p79) 柳田は狐を神の先触れとして降りてくるのを迎え、祀った場所が全国に多く分布する狐塚だと推定した
2021-01-09 16:31:31古代の神社を考える時の基本史料は、平安時代の法令施行のマニュアル集『延喜式』である。そのなかに「神名帳」と呼ばれる全国の神社名を記した台帳がある。 (井上満郎『お稲荷さんの正体』p108) 無知すぎてこういう基本史料とか知らんから勉強になるなあ
2021-01-10 11:24:18メモ 稲荷祭は平安時代から多くの人が集う賑やかなものであり、「風流過差」つまり祭りを担うに人々が度を越して贅沢に華美に、祭りを豪華に飾り立てようとした。 稲荷祭が現行の祭礼になったのは、安永三年(1774年)を起源とするが、神社創建以来、祭りのカタチはともかく連綿と続いていると思われる。
2021-01-10 11:43:36メモ 稲荷祭に神輿の渡御があったのは11世紀初め。 祭礼の姿は『小右記』、『和泉式部続集』に描かれ、大変な賑やかさが伺える。『明月記』には、嘉禎元年(1235)には獅子舞同士が「闘諍して互いに殺害」に及んだことが記されており、無秩序だが、巨大なエネルギー溢れるものであった
2021-01-10 11:48:44メモ 稲荷といえば、初午であり、遅くとも平安時代には初午は行われていた。 稲荷神社の初午が記録の上に最初に見られるのは『貫之集』であり、10世紀前半頃までには初午行事は成立していた。
2021-01-10 12:00:21メモ 初午の様子は『今昔物語集』などにみえ、稲荷山全山が神への祈願と行楽おをあわせて楽しむ人々で溢れかえっていたとわかる。今でいうピクニック。そこでは男女の出会いなどもあった。神への信仰と人人の暮らしが一体となって京都の風景となっていた。
2021-01-10 12:10:00