2021年1月16日

暇と退屈の倫理学を読んでみた

りあさんがよんでみました。
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りあさん @spicarialiiica

暇なので暇な人が読みそうな本が届きました。 pic.twitter.com/ixryEW6kL0

2021-01-05 17:37:25
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りあさん @spicarialiiica

"資本主義の全面展開によって、少なくとも先進国の人々は裕福になった。そして暇を得た。だが、暇を得た人々は、その暇をどう使って良いのか分からない。何が楽しいのか分からない。自分の好きなことがなんなのか分からない。"

2021-01-05 23:27:11
りあさん @spicarialiiica

"人はパンが無ければ生きていけない。しかし、パンだけで生きるべきでもない。私たちはパンだけでなく、バラも求めよう。生きることはバラで飾られねばならない。" イイネ

2021-01-05 23:32:14
りあさん @spicarialiiica

Q:暇なんだが? A: パスカル「気晴らしのために苦しみすら求める人間は愚かだ」 ニーチェ「人間には退屈よりも苦しみたいと言う欲望がある」 ラッセル「退屈の反対は快楽ではなく興奮であり、不幸であっても構わない」 スヴェンセン「個々人が生の意味を獲得しようとするから退屈に苦しむ」

2021-01-06 10:57:03
りあさん @spicarialiiica

Q:人間はいつから暇? A:定住生活で余裕ができてから(1万年前) Q:暇は恥ずかしいこと? A:むしろ働く必要性がないというステータスシンボル。暇がないと文化は生まれない。 Q:暇で辛いんだが A:労働者が突然暇を与えられたから。暇を生きる術を知らないのに暇を与えられた人間は苦しむ。

2021-01-06 11:34:37
りあさん @spicarialiiica

労働者の余暇は資本主義に取り込まれざるを得ない。 ・高い能率で仕事させるために、充分な余暇を与えるという形で労働者は管理されているため。 ・余暇の文化を持たない労働者は、欲求に先行した生産と供給から余暇の過ごし方を選択するため。

2021-01-06 11:53:17
りあさん @spicarialiiica

ガルプレイス「かつては自分の欲しいものが何であるかを広告屋に教えてもらう必要のあるひとはいなかったであろう」

2021-01-06 11:53:32
りあさん @spicarialiiica

しかし現在の消費社会では退屈しのぎ、気晴らしのために生産者も消費者も激しいモデルチェンジと消費サイクルに追われている。消費量が予測不可能なことによる不安定な生産体制は不安定な雇用も産む。人間の暇を消費で解決する方法は限界が近づいている。

2021-01-06 12:12:32
りあさん @spicarialiiica

ボードリヤール「消費は浪費と異なり、物理的なモノではなく観念のマウンティングなので終わりがない。労働すら生き甲斐という価値を消費する行為である。余暇はもはや非生産的活動を消費する時間でしかない。満たされなさという退屈を永遠に生きることになる。」

2021-01-06 14:30:10
りあさん @spicarialiiica

「暇ではないが退屈している」はあり得る。一回きりでなくなってしまうが、ほとんど同じような繰り返しの毎日による現実感の喪失を、消費という終わりのない行為で埋めようとしたときに生じる。

2021-01-06 14:41:00
りあさん @spicarialiiica

現代の退屈は、消費サイクルにより自分で自分を蝕む「疎外」とも言える。ここでいう「疎外」は、戻らねばならない本来性というものを措定しない、(ルソーやマルクスに代表される)「本来性なき疎外」として論じられ、いかにしてこの疎外から解放されるかという問題意識を伴っていなければならない。

2021-01-06 15:08:22
りあさん @spicarialiiica

ハイデガーは退屈には「何かによって退屈させられる」「何かに際して退屈する」の2種類あると言う。前者はものが言うことをきいてくれない状態、後者はより深まって、自分自身が空虚であり、気晴らしと退屈が区別できなくなってしまった状態である。人間の生とはこれに挑み続けることである。

2021-01-07 23:45:28
りあさん @spicarialiiica

さらに深まると、「何となく退屈だ」というあらゆるものが退き、気晴らしも許さない段階となる。先述の2種類の退屈は、全て人間がこれから耳を塞ぐことを表している。しかし退屈は我々に自由の可能性を教えてくれる。自由は、決断によって発揮できる。

2021-01-07 23:54:22
りあさん @spicarialiiica

人間だけが退屈する。動物は退屈しない。なぜなら、人間は自由で、動物は〈とらわれ〉ているから。世界を世界そのものとして認識して関われるのは人間だけである。ハイデガーは人間に環世界を認めない。一方で、人間は環世界を移動する能力が極めて高い生物であるという見方もできる。

2021-01-09 00:51:00
りあさん @spicarialiiica

人間は一つの環世界に浸ることができないので、退屈に悩まされるのである。

2021-01-09 00:54:55
りあさん @spicarialiiica

ハイデガーは、「退屈を打破するために決断せよ、決断のために関わりを断て」と迫る。キルケゴールは、決断を一つの狂気と表す。狂気の奴隷になり、敢えて苦しむというのは、「退屈より苦しみを選択する」人という存在にとって心地よい。

2021-01-15 11:29:23
りあさん @spicarialiiica

しかし、与えられた苦しみも、選び取った苦しみも、退屈から逃れる為に何かの奴隷になり安寧を得ている状態に変わりはない。気晴らしと混じり合う「なんとなく退屈」と付き合っていく姿こそ、人間が人間らしく生きているということではないだろうか。

2021-01-15 11:37:52
りあさん @spicarialiiica

コジェーヴは人間の歴史が目的を持ったプロセスだという仮定で、それが達成された状態を「歴史の終わり」、ひいては「本来の人間の終わり」と呼ぶが、それは勘違いである。その後の姿はむしろ、「なんとなく退屈」を生きる、何らかの奴隷ではない、人間そのものである。

2021-01-15 11:55:14
りあさん @spicarialiiica

人間は不安定な環世界を生きる。出生直後のその変化は凄まじい。ある意味人間の成長とは、自分なりの環世界を構築する過程とも言える。人間の環世界は習慣に強い影響を受ける。考えることが重要とは言うが、人間は考えないで済む生活を目指して生きているのである。

2021-01-15 12:00:52
りあさん @spicarialiiica

ドゥルーズは、人間はショック(「不法侵入」)を受けてようやく仕方なく考え出すと言う。フロイトは、無意識の快原理において、快は興奮量の減少であると言う。これらは、今までの環世界論と合致する。

2021-01-16 09:45:01
りあさん @spicarialiiica

人間は安定と均整を持った、気晴らしの退屈を、複数の環世界を彷徨いながら「人間らしく」生きている。しかし、何らかの衝撃によって一つの環世界にとりさらわれ、その事しか考えられなくなる。この時人間は、人間らしい生から外れ、動物として存在している。

2021-01-16 09:48:28
りあさん @spicarialiiica

(動ポモで見た「動物化」は欲求のみを希求する社会だからこの動物とは全然違うよなあ。コジェーヴの動物の方が近そうだなあ…。一つの環世界しか持たない、と欲求のみに生きる、はまた違う概念だよな?)

2021-01-16 09:54:01
りあさん @spicarialiiica

結論として、退屈を脱するにはどうしたら良いか?それは、贅沢を取り戻す、物を受け取って、楽しむ素養を自分につけることである。ラッセルは「教育は楽しむ能力を訓練することであった」と言う。気晴らしを存分に享受し、人間であることを楽しもうではないか。

2021-01-16 10:59:30
りあさん @spicarialiiica

豊かである、とは、楽しむ能力を得るための訓練が日常的に行われる状態である。退屈を奴隷状態で対処しているとき、我々は「受け取ることができない」。しかし我々は、退屈を退けるたてに、楽しみのために思考し、敢えてとりさわられる、「動物になる」こともできる。

2021-01-16 11:07:44
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