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格調と異国情緒を演出するために、ここではあえて日本語でありながらもとは外国語(中国語)であった、ニュートラルな文体が選ばれることになったわけである。 (安藤宏『「私」をつくる』p4)
2021-01-24 10:26:34たとえ会話に似せることはできても、文章それ自体は決して話し言葉にはならない。それはあくまでも、話している"かのように"よそおわれた言葉でしかならないのだ。 (安藤宏『「私」』をつくるp6)
2021-01-24 10:30:54「私」をつくる メモ 「言」と「文」がかけ離れたものとなった明治初頭。 落語や講談に近く、人物の会話か多く、日常的なテーマが多い小説は「言文一致」の格好の舞台になった。
2021-01-24 10:33:47なまじ"話すように書く"などという試みを自覚的に始めてしまったために、近代の小説は「話しているのは誰なのか」という問題、つまり作中世界を統括する主体がどのような立場と資格で語るべきなのか、という大きな課題に突き当たることになってしまったのである。 (安藤宏『「私」』をつくるp11)
2021-01-24 10:43:07その隠れた「私」が自在に立ち回り、伝統的な和文脈の性格を生かしつつ、同時に世界を統括する主体を求める近代小説の要請にも答えようとしている、と考えるべきなのではあるまいか。 (安藤宏『「私」をつくる』p19)
2021-01-24 10:51:34仮に小説の書き手である実在の人物が主人公であるように書かれていたとしても、作中の「私」は現実の作者とイコールではなく、虚構の「作者」をみずから演じ、それを絵解きにして小説を読むよう、読者をいざなっているのだ、と考えてみることはできないだろうか。 (安藤宏『「私」をつくる』p21)
2021-01-24 10:58:55今年度 近現代文学史を担当された先生は大学院時代 安藤宏さんの指導を受けていたらしいが、春学期のほとんどを『「私」をつくる』に書かれているようなことの指導に費やしていたのを思い出して、ひとりニヤニヤしている。
2021-01-24 12:06:18町や村のミニチュア模型を見る楽しさは、世界をトータルに所有してみたいというわれわれのうちなる欲望に発している。上から立って眺めると学校や病院の配置を一望できるのだが、それはいわば「~た」に表される統括的な、三人称的な視点である。 (安藤宏『「私」をつくる』p30)
2021-01-25 11:39:50連載が長期化していくその過程は、一人称の視点から出発した「小説」には何が必要になるのか、が「猫」の変貌を通して明らかになっていくプロセスでもあったわけである。 (安藤宏『「私」をつくる』p34) ここ鋭い。一人称の語り手の限界をこえるために「読心術」なんてものが「後付け」された。
2021-01-25 12:00:21結局、画工は最後まで「画」を描くことなく終わってしまうのだが、仮に「画」を「小説」の比喩(メタファ)として考えてみると興味深い。この事実は、「私」が当事者でありながら三人称をよそおうことの困難を象徴的に示しているかのようだ。 (安藤宏『「私」をつくる』p36)
2021-01-25 12:06:09作中のどの"目隠し"に力点を置くかによって、われわれ読者はプロット(筋立て)の狭間からさまざまなストーリーを導き出していくことができるわけである。 (安藤宏『「私」をつくる』p45) 「語られないこと」に注目する読みね
2021-01-25 12:21:00漱石のその後の創作の足跡は、「~た」に傾斜していく中でいかに当初の一人称的な当事者の感性を再生していくかをめぐる、試行錯誤の歴史であったとも言えるだろう (安藤宏『「私」をつくる』p46) 恥ずかしながら、漱石後期(活動期間が短いから前後期分けれるか微妙だけど)の作品はほぼ読んだことない
2021-01-25 12:50:22おそらく文章を書くコツの一つは、叙述の中に「あなた」をどこまで想定して書いていくかという、その「あなた」づくりにある。 (安藤宏『「私」をつくる』p51)
2021-01-25 14:08:34近代小説の言文一致体はまず「顔の見えない話し言葉」を選択し、次にその反動として「ひとりごと」化していく、という大きな流れがあったように思われるのである。 (安藤宏『「私」をつくる』p61)
2021-01-25 14:24:22このように「描く私」と「描かれる私」との対比を通し、「何が描けないのか」という「もう一つの物語」が立ち上がる中で、当初見えなかったさまざまな問題が浮き彫りにされてくるパラドックスにこそ、一人称小説の第三の効能を指摘しておくことができるのである。 (安藤宏『「私」をつくる』p94)
2021-01-25 16:03:14文学が扱うことのできるのは常に幽明界を異にするこの二つの世界の関係だけなのであって、要はその"交通"をいかに言葉にしていくか、なのだ。 (安藤宏『「私」をつくる』p123)
2021-01-25 20:25:33一人称が告白性を強めていくにしたがって、幻想もまた、「伝言ゲーム」の方法から自己が自己内部の暗部を掘り起こしていく形へと変化していった。 (安藤宏『「私」をつくる』p144)
2021-01-25 21:08:53近代小説の一人称は現実と非・現実との関係一いきさつ一に拘泥し、これを語り続けることによって、写実主義の信奉される世にして初めて可能な、豊穣な幻想の領域を切り開いていったのだった。 (安藤宏『「私」をつくる』p145)
2021-01-25 21:11:12重要なのは作中の「私」が読み手を囲い込むためにどのような「作者」像を提案し、あらたに発信しようとしているのか、またそれらの相互作用によってどのような伝承形態ができあがっていくのか、を考えていく視点なのである。 (安藤宏『「私」をつくる』p165)
2021-01-26 10:32:51重要なのは作者の「事実」を作品外に特定することなのではなく、それが小説を「小説」たらしめる情報として内部からどのように発信され、テクストのウチとソトをつなぐコミュニティを立ち上げてきたのか、という経緯を明らかにしていく発送なのである。 (安藤宏『「私」をつくる』p168)
2021-01-26 10:40:09たとえば芥川はこの時期、『大正八年度の文藝界』(大正八年)という時評を書いており、そこには先の流派の対立がきわめて的確に、すでに今日の見方にかなり近い形で整理されている。 (安藤宏『「私」をつくる』p170) 自然主義、白樺派、新技巧派、耽美派みたいな分け方は当時からされてたんだな。
2021-01-26 10:46:40「自然主義」「耽美派」「白樺派」「新技巧派」といった文壇派流の区画は、実は彼らが小説を書くために意図的につくった役柄にほかならなかったのである。 (安藤宏『「私」をつくる』p171)
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