渡邊先生の行動分析学関係のつぶやき

良いタイトルが浮かびませんでしたorz いろいろな論点が混在しています。一部「行動分析学入門」を超えた話もありおもしろいです。 最後の方の「ほめる/しかる」は日常で使う意味とは少し違います。行動分析学の「強化」「罰(弱化)」のそれぞれに相当するものを、わかりやすくするために「ほめる/しかる」で代用しているようです。
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渡邊芳之 @ynabe39

もともと人は「やるといいことがある」ことをしようとします。最初はその「いいこと」は生理的な快感だったりママのおっぱいだったりしますが,成長するにつれて「人にかまわれる」ことの優先順位が上がってきて,悪いことでもよいことでも人にかまわれることをやるようになります。

2011-07-25 19:49:10
渡邊芳之 @ynabe39

人にかまわれた喜びが内在化したものが「意欲」とか「動機づけ」です。他人にかまわれるためにやっていたことがそのうち「自分で自分をかまう」ことで維持されるようになります。「主体性」なども,そうした「人にかまわれることが内在化した機能」です。

2011-07-25 19:50:53
渡邊芳之 @ynabe39

さっき書いたように,主体性とか意欲といったものは「人にかまわれる喜びが内在化して,自分で自分をかまうようになったもの」です。まずは人にかまわれないと発達しない。RT @finalvent: ええ。主体性のない馬鹿。

2011-07-25 19:51:54
渡邊芳之 @ynabe39

自分の望むようにかまってくれる人がいないからです。RT @10CHF: 孤独を求めるのはなぜでしょうか。

2011-07-25 19:52:48
渡邊芳之 @ynabe39

もともと「人にかまわれる喜び」が遺伝的な基盤を持っているという意味では遺伝ですが,それが内在化して主体性だの意欲だのになるには「かまわれる経験」が必要です。 RT @finalvent: いや、遺伝でしょ。

2011-07-25 19:55:03
渡邊芳之 @ynabe39

逆説的に聞こえるかもしれませんが,「自分で考えて主体的に行動する子」にしたいならなおさら,他者との関係を悪くするような行動でなく他者との関係をよくするような行動によって「かまわれる」体験をたくさん与えなくてはなりません。

2011-07-25 19:56:45
渡邊芳之 @ynabe39

「主体性がある」ということは「まわりを無視して行動する」ということではありません。「まわりとの関係を自分にとって望ましいようにする行動を自分で選べる」ことです。その力の基盤を作るのは「他者との関係をよくするような行動できちんとかまわれた体験」です。

2011-07-25 19:58:51
渡邊芳之 @ynabe39

主体性とか意欲とか動機が遺伝すると? RT @finalvent: どうかまわれるかは関係なく。

2011-07-25 19:59:34
渡邊芳之 @ynabe39

私がいま書いたことは私個人の考えではなくて,自発性とか動機づけについて心理学が100年にわたって研究してきたことのエッセンスです。「自発性」とか「動機づけ」はもともと「他者との関係によってつくられるもの」なのです。

2011-07-25 20:01:29
渡邊芳之 @ynabe39

「誰にも言われなくても自発的にやる」ということは「それをやっている自分を自分でほめる」ということです。それができるようになるためには「それ(あるいは類似した行動)をやって誰かにほめられた体験」が内在化されることが必要です。ほめられたことがない人は自分をほめられない。

2011-07-25 20:03:06
渡邊芳之 @ynabe39

その「環境」のうち,人間にとって著しく重要なのが「社会的環境」つまり「他人にかまわれること」なんですよ。RT @finalvent: 動機は遺伝しない。主体は環境トリガー。意欲は遺伝性向の派生。

2011-07-25 20:04:19
渡邊芳之 @ynabe39

この問題については操作と操作されるものは視点によって簡単に入れ替わります。親も子どもから「よくかまわれる」ために子どもをかまうわけです。 RT @finalvent: どうかまわれるかという操作性の問題ではないけど。

2011-07-25 20:08:39
渡邊芳之 @ynabe39

「親が子どもの行動を特定の方向に誘導するのはよくない」というならしつけも教育もやっちゃいけないことになります。しつけも教育も否定する,というならそれはそれでひとつの見識ですが,私はそうは考えない。

2011-07-25 20:11:42
渡邊芳之 @ynabe39

「しつけ」とか「教育」でわれわれが行っていることの本質はなにか,ということを考えて初めて「どうしつけるか」「どう教育するか」を考えることができます。その「本質」が常に耳触りのよいものとは限りません。

2011-07-25 20:13:08
渡邊芳之 @ynabe39

ちなみに教師の行動もなんらかの意味で「子どもにかまわれたいからやっている」部分の多いものです。どちらかが一方的に「かまって支配する」などということはそう簡単に成立しない。

2011-07-25 20:15:04
渡邊芳之 @ynabe39

むしろ「自分が子どもにできることはかまってあげることだけ」なんですよ。そうだったら「他者との関係を悪くするような行動をかまっちゃう」んじゃなくて「他者との関係をよくするような行動をかまってあげようよ」というお話。

2011-07-25 20:20:33
渡邊芳之 @ynabe39

私は「自主性とはほめられることの内在化である」と書いています。そして感謝や尊重をそだてるのも「かまうこと,ほめること」です。 RT @ne2007: 褒めることで自主性は育たない。感謝や尊重が大事ですね。

2011-07-25 20:22:14
渡邊芳之 @ynabe39

もちろん含まれます。RT @nyanhositaro: いきなり質問スミマセン。教師の例での「かまわれる」には、「ギャグ言ったら笑ってくれる」など生徒のリアクションが含まれますか?

2011-07-25 20:58:03
渡邊芳之 @ynabe39

ほめられてもその行動が増えなければそもそも「ほめられた」ことにならない。 RT @massurubodee: 褒められてもうれしく感じない場合は内在化はしないんですか?

2011-07-25 20:58:51
渡邊芳之 @ynabe39

「ほめる」とは「なにかの言語的な働きかけによってその直前の行動を増やすこと」としか定義のしようがないです。 RT @new_hamster: 操作主義的な意味でですか?

2011-07-25 21:10:33
渡邊芳之 @ynabe39

だから「ほめたつもりで叱っている」ことがあるし,問題行動に対しては「叱ったつもりでほめている(その行動を増やしている)」ことがありうるわけです。

2011-07-25 21:11:31
渡邊芳之 @ynabe39

言い換えれば,ほめるとか叱るとかは「与える側の気持ちや意図」の問題ではなく,結果として行動が増えるか減るかなのです。叱っても行動が増えればそれは「ほめている」んだし,ほめても行動が減るならそれは「叱っている」んです。

2011-07-25 21:13:46
渡邊芳之 @ynabe39

肯定することによって行動が増えるならそうです。RT @okikazuya18: 「肯定する」ということと同義と考えてよいのでしょうか?

2011-07-25 21:14:19
渡邊芳之 @ynabe39

まさにまさに。 RT @okikazuya18: なるほど!否定しているつもりで行動を増やしているケースがありえるからですね。

2011-07-25 21:17:10
渡邊芳之 @ynabe39

まさにまさに。 RT @noiehoie: 煙草の害を指摘し、煙の迷惑さを詰り、健康被害を訴えても、聞き手の喫煙量が減らないと、叱った事にならないってことか?

2011-07-25 21:17:33