阿部公彦『幼さという戦略』読書メモ

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かんた @0sak1_m1d0r1

つまり、賢く強い人が弱い人を説き伏せるというのが社会の「表」の構図だとすると、その「裏」では別の構図が機能しているのではないか。それは、未経験で力のない人こそが語り、知恵と力を備えた人がそれを聞く、という構図である。 (阿部公彦『幼さという戦略』p5)

2021-02-02 15:00:58
かんた @0sak1_m1d0r1

本来なら、否定的にとらえられるはずの「未成熟さ」が、不思議と日本発の若者文化の中では独特なエネルギーと斬新さを生み出している、これは無視することのできない新しい文化の潮流だ、という見方である。 (阿部公彦『幼さという戦略』p18)

2021-02-02 15:08:01
かんた @0sak1_m1d0r1

こうしたカウンセリングを利用する段階で、利用者は庇護される側に進んで自分を置いていることになる。もっと言えば、カウンセリングの場において、利用者は当該領域の事情に昏い、未成熟な自分、幼い自分を受け入れることになる。 (阿部公彦『幼さという戦略』p25)

2021-02-02 15:21:46
かんた @0sak1_m1d0r1

もっぱら自己の否定と卑下を繰り返す語り手が展開する世界は、読者にとっては適度なやわらかさを感じる、居心地の良い場所となる。 (阿部公彦『幼さという戦略』p45) たしかに。

2021-02-02 16:26:16
かんた @0sak1_m1d0r1

よく言われる太宰の読みやすさの裏には、実は読みにくさわかりにくさ、不安定さ、あいまいさなどが織りこまれているのがわかる。これらの要素はいずれも語りの声の弱さと密接にむすびついている。 (阿部公彦『幼さという戦略』p48)

2021-02-02 17:42:27
かんた @0sak1_m1d0r1

軟体動物のようにくねくねとその形を変化させながら、登場人物たちの養分を吸い取りつつ、信念や思想ではなく、情緒や感情の流れをゆるやかにとらえるのが太宰の小説の語り手である。 (阿部公彦『幼さという戦略』p50)

2021-02-02 17:48:40
かんた @0sak1_m1d0r1

このように会話というものは、雑音によって丸ごと相対化され、そのことで逆にふくらみや奥行きが与えられたりするのである。これに対し、村上春樹はそうした要素をあえて省略する。 (阿部公彦『幼さという戦略』p68)

2021-02-02 20:58:47
かんた @0sak1_m1d0r1

おそらく村上春樹の作品には、世界との付き合い方の理想型が体現されているのではないか。「私」が世界と付き合うとき、「私」は世界とその字義通りの意味においてだけ関係したい。 (阿部公彦『幼さという戦略』p74)

2021-02-02 21:09:39
かんた @0sak1_m1d0r1

主人公はむしろ規範を求めている。より純粋な法を求めている。社会はあまりに逸脱的で雑音に満ちている。そういう雑音的なものを村上春樹は滅多に書かないけれど、まさにその書かないという点に拒絶の身振りがこめられているし、 (続く)

2021-02-02 21:17:31
かんた @0sak1_m1d0r1

(続き) 彼が好んで描く純粋で字義通りの会話もその明瞭な反映だと言える。 (阿部公彦『幼さという戦略』p78,79)

2021-02-02 21:18:38
かんた @0sak1_m1d0r1

村上春樹の主人公が「純粋な法を求めてい」て、「社会はあまりに逸脱的で雑音に満ちている」っていう阿部公彦先生の指摘は面白いな。村田沙耶香の『コンビニ人間』の主人公も「純粋な法」をコンビニという場に求めていた。ただ村田は社会の「雑音」もしっかり描いてた。

2021-02-02 21:21:02
かんた @0sak1_m1d0r1

村上春樹がサリン事件の被害者にあのようなインタビューを行ったことで、彼はまずは小説というジャンルの外で、雑音のない言葉のやり取りの鋳型と出会ったのかもしれない。 (阿部公彦『幼さという戦略』p79) ここも興味深いなあ

2021-02-02 21:22:43
かんた @0sak1_m1d0r1

「かわいい」とは明確な形容であるよりも、たえず瞬間的な作用や印象として生起するような、とらえどころのない気分なのかとも思える。 (阿部公彦『幼さという戦略』p90)

2021-02-04 15:09:43
かんた @0sak1_m1d0r1

手塚の女性たちは、女性らしい生々しさとは無縁だとみられていたのである。本人はそのことを自覚しており、自分の漫画の本務は写実ではなく「記号」なのだとして、「まんが記号説」と呼ばれる主張まで行っている。 (阿部公彦『幼さという戦略』96)

2021-02-04 15:35:05
かんた @0sak1_m1d0r1

ナイが「キュートさ」のあらわれとして焦点をあてるのは、些末さや無駄、とりとめのなさといった要素なのだが、こうしてみると「崇高さ」と対比されるものとしての「美しさ」の延長上に「キュートさ」を見るという視点もありそうに思える。 (阿部公彦『幼さという戦略』102)

2021-02-04 15:54:16
かんた @0sak1_m1d0r1

そういうわけで「かわいい」という形容は、とくにそれが幼いものに対して用いられる場合は、社会における作法の一部となっている。しかし、規範や拘束となることで、好意が幼いものに対して抑圧的に働くこともありうる。 (阿部公彦『幼さという戦略』106)

2021-02-04 16:02:08
かんた @0sak1_m1d0r1

本田和子『異文化としての子ども』面白そう。

2021-02-04 16:03:07
かんた @0sak1_m1d0r1

本田もまた秩序と反秩序といった対立を出発点にして、いわゆる大人の文化全般に見られる秩序転覆的な「どっちつかずのもの」への感受性の萌芽を幼児性の中に見て取っているわけである。 (阿部公彦『幼さという戦略』108)

2021-02-04 16:15:07
かんた @0sak1_m1d0r1

そこではっきりしてくる幼さの美学の最大のポイントは、幼さを(結果的に)表現する側が、自らの表現についてコントロールしておらず、なぜ表現効果が生じたかもわかっていないということである。 (阿部公彦『幼さという戦略』118)

2021-02-04 16:34:49
かんた @0sak1_m1d0r1

幼さの美学は、このように、作り手と受け手との関係の改変を迫るものなのである。完璧な手並みを持った職人の作品を、一流の目利きが賞味するというプロとプロとのせめぎ合いとは違う。作り手は、自らが何をしようとしているのかぜんぶはわかっていない。 (つづく)

2021-02-04 17:00:05
かんた @0sak1_m1d0r1

(つづき) しかし、叱られたり、許されたりすることを前提としているので、失敗を恐れることなく、自分の感性にきわめて正直に、自由に、力を抜いて書ける。 (阿部公彦『幼さという戦略』120) こういう視点から尾崎翠『アップルパイの午後』を読み返したい。

2021-02-04 17:01:25
かんた @0sak1_m1d0r1

アイロニーや意味のずれといったものは、ずれ合う意味をともに見わたす地点があって、はじめてその機能を発揮する。つまり、全体を俯瞰する者がいなければならない。全体を俯瞰する責任が読者にゆだねられている場合、こちらはときに不安になる。 (阿部公彦『幼さという戦略』128)

2021-02-04 19:55:22
かんた @0sak1_m1d0r1

定型詩は、まさにそれが定型という規範に積極的に寄り添うものであるがために、「大人」のそぶりを見せる。taとえ表現された心の動きに、幼さや弱さが垣間見えたとしても、どこかでそれをかっちりした形に従えようとする統御の力のようなものが働く。 (阿部正彦『幼さという戦略』144)

2021-02-04 21:01:05
かんた @0sak1_m1d0r1

詩は個人に、自分の言葉に執着する自由を与えてくれる。そうしてできあがった作品の「リズム」には、詩人の言葉を運ぶ作用があるが、と同時に、そんな「リズム」を「以心伝心」で受け止めてくれる人がいなければならない。 (阿部公彦『幼さという戦略』152)

2021-02-04 21:19:44
かんた @0sak1_m1d0r1

江藤はこの「幼さの次に来る何か」を「成熟」という語でとらえることにこだわりつつも、実際のところ、それが「崩壊」であり「喪失」にほかならないという指摘を議論の柱にした。 (阿部公彦『幼さという戦略』190)

2021-02-05 14:44:58