現代実在論と後期クイーン的問題

『観光客の哲学』の感想まとめ
6
@quantumspin

「素朴実在論と後期クイーン的問題」をトゥギャりました。 togetter.com/li/1663400

2021-02-06 08:20:08
@quantumspin

東浩紀さんが『観光客の哲学』に「郵便的思考では、神はとりあえず存在しないが、現実にはさまざまな失敗があるがゆえに存在しているように見えるし、またそのかぎりで現実に存在するかのような効果を及ぼす」と書いていて、京極さんが「妖怪」に向ける視点とよく似ていると、今更ですが感じました。

2021-02-13 09:52:20
@quantumspin

京極小説は妖怪を扱いながら、妖怪の存在を相対化する視点が描き込まれていて、例えば『虚構推理』で描かれたような、内面を持つ妖怪とは違っているわけです。そこに『姑獲鳥の夏』の本格ミステリ的趣きがあるのでしょうが、それは同時に、「端正な本格」が前提する「真実」を相対化するものでもあった

2021-02-13 10:03:19
@quantumspin

本格ミステリは言うまでもなく、探偵が「真実」に辿りつくプロセスを描く物語です。その結果後期クイーン的問題が出くるわけですが、その場合も、探偵がたどり着けない真実など存在しないとまでは思わない。というか、真実があると信じるからこそ、そこに辿りつけない探偵は苦悩させられるわけですよね

2021-02-13 13:12:46
@quantumspin

この感覚は、東さんの言葉で言えば「否定神学的」という事になると思います。「神の存在を否定表現(~でない)の積み上げで証明しようとする企て」と要約される通り、この論法は『その可能性はすでに考えた』の奇蹟論法のようでもありますが、後期クイーン的問題では「奇蹟」に代わり「真実」が置かれる

2021-02-13 13:22:37
@quantumspin

法月さんが「初期クイーン論」で新本格ミステリを「「ニューアカデミズム」以降のディスコントラクティヴな知的思潮」と言い現わしたのも、むろんこの否定神学的な世界像を前提しているのだと思います。

2021-02-13 13:28:44
@quantumspin

ところが京極さんは、「真実」を相対化する事でこの外部を取り払い、代わりに「とりあえず存在しないが、現実にはさまざまな失敗があるがゆえに存在しているように見える」妖怪を表象させ、これを落とす、京極小説を創り上げる。まさに「否定神学的思考」から「郵便的思考」への転換があるように見える

2021-02-13 13:33:59
@quantumspin

そう考えると、妖怪がキャラクターの一種である事も示唆的ですね。ポストモダニズム(ディスコントラクティヴな知的思潮)から、ポストモダン(データベース消費)への転換となった『動物化するポストモダン』を想起させられるものがあるからです。

2021-02-13 13:40:55
@quantumspin

だから京極堂シリーズは、妖怪を描きながらも、妖怪の内面は描かないわけです。京極さんにとって妖怪とは、「存在しないが、存在しているように見える」ものなのだろうと思います。これは東さんが、キャラクターを萌え要素の集合体と捉え、オタクの動物的消費材として規定した事と似ている気がします。

2021-02-13 14:46:50
@quantumspin

一方『虚構推理』で描かれる妖怪は、世界に存在し内面が与えられています。ギロチン三四郎やピノキオといったものまで〝擬人化〟されてしまうわけです。要するに、モノが擬人化されているわけですが、こうした世界像は、真実を相対化する、京極さんや東さんの論理からは出てこないような気がします。

2021-02-13 14:52:50
@quantumspin

〝擬人化〟には感情移入の構造があります。キャラクターにしても妖怪にしても、ただ人間に消費される為にあるわけではなく、それ自体に共感するわけです。最近では戦艦や兵器、国家や人外、至る所に〝擬人化〟を見つけられますが、モノを単なる消費財と捉えない視点は、人新世の議論にも繋がるものです

2021-02-13 15:04:22
@quantumspin

という事で、新本格から京極小説を経て現代ミステリに至る流れは、ポストモダニズムからポストモダンを経て現代実在論に至る流れを綺麗になぞっているように見えるわけです。渡邉大輔さんも近い事を書かれていましたね。

2021-02-13 15:08:32
@quantumspin

よく『虚構推理』は「真実」を相対化した、ポスト・トゥルース時代の(ディベート)ミステリと言われますが、そもそもそれは、『姑獲鳥の夏』の時点で既に描かれていたわけです。ただそれは、ミステリのポストモダン化と言うべき事態であって、妖怪(キャラクター)の内実が描かれる事はなかった。

2021-02-13 15:27:02
@quantumspin

対して『虚構推理』はキャラクターの内実を描きます。『虚構推理』に限らず、キャラクターの実存を描いたミステリは、清涼院流水以降、実に多い。これらは、真実を相対化しただけの、ポストモダン・ミステリとも手触りが違っているわけです。そこにはキャラクター(モノ)に対する感情移入の構造がある

2021-02-13 15:30:04
@quantumspin

『虚構推理』がディベート形式になったのは、キャラへの感情移入の帰結と私には思えます。彼らにとって、世界とは何か。謎とは何か。萌えキャラを殺すとはどういうことか。彼らの内実に作者が向き合ったからこそ、あのような話が書かれたのだと思います。単にオタクの消費材と見ていては想到しえない。

2021-02-13 15:42:20
@quantumspin

結局東さんは国家を人間、グローバリズムを動物としたうえで、国家間を軽率に漂う「観光客」に注目するのですが、人とモノとの関係に注目した時、東さんの言う「誤配」のようなものは、最近では「擬人化」がその役割を担うようになっていますよね。

2021-02-13 17:37:30
@quantumspin

「特殊設定と後期クイーン的問題」をトゥギャりました。 togetter.com/li/1670112

2021-02-19 07:10:35