歴史系雑語り・主に地理面から見た九戸の戦いと私見と感想

天正19年(1591)に陸奥国南部氏の領地で勃発した九戸の戦いを主に地理面から見ています。それに対する私見と、戦いによって引き起こされた悲劇とその後についての感想がついています。ツイート寄せ集めなので重複や文脈が切れている部分が多いですがご勘弁ください。
8
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正19年九戸戦戦況図 訂正版(1/2) 1年ちょい前になげたツイートの訂正版。時系列は基本的には新編八戸市史通史編Ⅰが底本とし、地図は国土地理院のを使用。間違っていた部分を修正し幾つか記述を加筆。 pic.twitter.com/uNOCAWbTF1

2022-03-13 00:53:25
拡大
拡大
拡大
拡大
帆船ハッカ @kotosakikotoko

天正19年九戸戦戦況図 訂正版(1/2) pic.twitter.com/WWIr8FUK37

2022-03-13 00:53:27
拡大
帆船ハッカ @kotosakikotoko

八戸市史通史編Ⅰは多分現在出ている本の中で、九戸一揆の経過を記述したものとしては最も詳しいんじゃないかな。九戸戦中に起きた様々な動きを出来るだけ時系列に置いてまとめあげようとしている。大きな事件なのに意外とそういう文章って無かったんだよなぁ。他の部分も含めて意欲的な本だと思う。

2015-08-30 04:31:44
帆船ハッカ @kotosakikotoko

九戸戦における九戸の失敗は、やはり三城攻撃を成功させられなかったことだよなぁ、と思う。あれを成功させられたなら、三戸は屈服させられたかもしれない。ただし最終的に奥羽仕置軍が来寇して改易されるのは間違いなく変わらなかっただろうけど。 三戸を道連れ程度には出来たかもね。

2020-09-04 20:25:37
帆船ハッカ @kotosakikotoko

これ前も呟いたけど、もし三城同時攻撃が成功していたら、というIFを立てると分かりやすくて、苫米地が陥落すると次に攻撃受けるのは北氏の剣吉館。伝法寺館が落ちるとその南には五戸、そして南氏の浅水館。一気に三戸領域へ踏み込むことが出来るのよね。ここを守り抜けたのは実はけっこう大きい。

2018-09-04 22:25:26
帆船ハッカ @kotosakikotoko

三戸側、開戦当初に金田一城と一戸城という、九戸城を南北に包囲する位置にある城を先んじて占領してて、信直は一戸城に通ずる月館から果敢に九戸側を攻めてる。そこから巻き返そうとしたのが3月13日の伝法寺・苫米地・一戸への三城同時攻撃。これ自体は失敗に終わるけど、

2018-09-04 21:58:50
帆船ハッカ @kotosakikotoko

その後福田・吉田という家臣の寝返りで信直が四戸に戻り、一戸城がこれも寝返りで陥落し、九戸側の優位が作り出され、信直が上方への救援を決意し北信愛・南部利正を上洛させる、という流れ。 信直も当初は自力鎮圧を目指してたのだけれども、一戸城の陥落でそれが不可能になったんだろうと思ってる。

2018-09-04 22:01:17
帆船ハッカ @kotosakikotoko

九戸戦において三戸側は九戸領域への攻撃拠点だった一戸や、外殻部の洞内など幾つかの領地を失陥しているのだけれども、一方で小軽米方面を確保して九戸郡北部を扼して圧力をかけるなど一進一退なのよね。けっして三城攻撃後は劣勢一方になった、みたいな単調な話ではない。

2020-09-04 20:40:31
帆船ハッカ @kotosakikotoko

一戸城を失陥した頃に信直は秀吉に救援を求める使者を送るとともに、沿岸方面へ通じる拠点の小軽米城を調略(場合によっては攻撃も企図していた模様)してここを久慈氏と野田氏に警備させている。ここを押さえる事で瀬月内川方面から四戸金田一の圧力を軽くしようとしたのかなぁ、というのはあるかな。

2017-09-05 00:04:57
帆船ハッカ @kotosakikotoko

改めてみると、九戸戦時の軽米地域は戦略的要地だなぁ。北西に向かって九戸方の晴山館・高家館を超えれば九戸城の押さえの金田一城に出るし、雪谷川沿いに北へ進めば島守地域を経て八戸方面へ。東の三陸沿岸地域の三戸方との連絡の結節点でもある。そりゃ信直も小軽米を押さえにかかるわ。

2014-04-07 12:25:00
帆船ハッカ @kotosakikotoko

島守館、そこから南に行くとそのまま九戸の領域である雪谷川・瀬月内川沿いに出るすごく面倒な場所にあって、八戸領域を脅かす南の玄関と言って良いのかも。だからこそその通路を脅かす小軽米の確保って戦略上凄く大きな成果とも考えられるよなぁ。

2016-08-23 21:45:46
帆船ハッカ @kotosakikotoko

野田政義は息子の親正・親清が九戸氏に仕えているし、種市中務は当時濃密な婚姻関係を結んで九戸の分族みたいになっていた久慈氏を名乗り、当主光徳の弟吉広は九戸氏から妻を迎えているしで、きわめて九戸氏に近い一族なのだけれども、これを三戸方に引っ張れたのはかなり大きい。

2020-12-06 11:36:47
帆船ハッカ @kotosakikotoko

野田氏は人質も取られて割と消極的であったようだけれども、それでも離反を防いだうえで軍勢の出動まで引き出しているのよね、信直。この時期は3月13日の同時攻撃が行われて劣勢とされた時期で、その時期に九戸・閉伊北部を確保しているのは実力だなぁと思うのね。

2020-12-06 11:39:32
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部信直、戦が弱い弱いって笑う奴は結構いるけど、攻勢を受けた戦線を崩壊させずに維持しさらに調略で敵と関係が深い勢力をきちんと味方に繋ぎ止めている辺り、言うほど弱くはない(強いとは言わない)

2020-12-06 11:44:19
帆船ハッカ @kotosakikotoko

一戸城を確保してそこから九戸に攻め上げたものの攻め切れなかったのは失点と言えば失点か。吉田・福田の裏切りはかなり大きいなぁと思うのよね。多分あれが無ければもうちょっと経過は違ったと思う。

2020-12-06 11:49:07
帆船ハッカ @kotosakikotoko

信直の戦い方って割と当時の武将のセオリー通りだと思うの。調略で相手を切り崩してそこを突破口として主導権を握っていくの。5月~6月にかけて様子見していた岩手郡や志和郡・閉伊郡の領主たちが信直方に転じていくの、仕置軍の来襲に怯えたという話だけでは説明できないと思っている。

2020-12-06 12:26:36
帆船ハッカ @kotosakikotoko

金田一城攻防戦の詳しい状況を知りたいけど無いんだよなぁ。九戸城(宮野城)とは目と鼻の先にある城で、間違いなく攻防の焦点になり得たと考えられるけど。あそこの確保は三戸側の勝ち点1だとオモ。

2016-07-31 11:11:25
帆船ハッカ @kotosakikotoko

九戸戦時の三戸って北の七戸方面に比べて南の壁がもろ九戸領域と接しておりそこが弱点となっていて、これの防衛の為に金田一城をいち早く確保し壁の厚みを確保したんだと思う。それなのにその金田一と三戸を繋ぐ釜沢館が中立決め込んだもんだから信直が切れて戦後に討伐したのも仕方ないと思う。

2016-07-31 11:26:00
帆船ハッカ @kotosakikotoko

一戸に関しては、ここは北の二戸と南の姉帯という九戸領域のど真ん中にあるという九戸側にとってすごく嫌な場所にある城で、ついでにいうと南部信直が陣を置いた月館にも連絡する場所なので、ここを落とすことは九戸側にとって自領域を安定させるために不可欠だった。

2016-05-28 20:46:30
帆船ハッカ @kotosakikotoko

6月には櫛引清長・清政兄弟が三戸の南慶儀・康政兄弟と交戦し、南兄弟が戦死。7月には九戸方の島守館が八戸政栄によって落とされるなど、興亡は一進一退だった模様。これ以外にも様々な交戦がされた形跡はいくつもある。 そして8月、蒲生氏郷を主力とした上方軍が北上してくるわけですわ。

2017-09-05 00:10:34
帆船ハッカ @kotosakikotoko

南部氏系近世史料の『信直の味方は減っていって馬廻だけで戦ってた』みたいな記述を信じすぎである。南部の近世史書に批判的な向きも、こういう所だけは都合がいいから採用しちゃうしね。

2020-09-04 20:44:03
帆船ハッカ @kotosakikotoko

九戸一揆における三戸は劣勢を強調されるけど、いち早く金田一城を確保したり三城攻撃に耐えて防衛線をなんとか維持したのは十分褒めていいと思う。むしろ九戸側も手詰まり感ある。

2016-12-02 19:57:56
帆船ハッカ @kotosakikotoko

九戸軍、本当はもう少し早い段階で南部側を屈服させて絶対優位な状況を作ろうとしたのだけれども、それに失敗して三戸側の持久方針に転換されてから決め手を欠いたんだろう感はある。

2018-09-04 21:39:56
帆船ハッカ @kotosakikotoko

調子こいてn番煎じで三戸南部氏の家臣団プロットしたろ、と作ったはいいけど領域が広すぎて微妙に見づらくなってしまった北奥羽三戸南部氏領域図。領土線引きは割と適当なので雰囲気で。地図はまた国土地理院のやつ使った。 pic.twitter.com/VWdQAyryy2

2020-03-29 22:41:11
拡大
拡大
帆船ハッカ @kotosakikotoko

15世紀末~16世紀初頭の三戸南部氏は、既に八戸の北部を扼する形で五戸まで勢力を広げていて、南部信義が修理大夫を名乗るなど、官位の面でも図抜けた存在になろうとしていた。 同じ時期に九戸氏は本領の雪谷川流域から飛び出て二戸を領し、勢力拡大の契機を掴むのだけど、ここからが分かれ道になる。

2017-12-02 20:11:10