曹丕即位後の潁川グループの影響力について

@syusyu07氏のツイートから着想を得た、穎川グループと他のグループについての自分の意見のまとめ用。
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ちゃんなな@暫定垢 @syusyu07

あのね。単純に曹丕が賈クをあえて三公につけていたのは、所謂穎川罰に政治の中枢を握りきらせないためという、政治的要因も少なからずあったと思うのよ@

2011-07-27 01:22:10
紫電P @sidenp

@syusyu07 陳羣が曹丕に対してどういうスタンスだったのかにもよりますが、当時の潁川閥は荀氏が一時衰退し鍾繇も往時の力はなく、杜襲、趙儼、辛毗はだいたい侍中クラスなので210年ごろほどの影響力はないのかなーとも思いますがどうでしょう。三公候補は潁川以外も多かったですし。

2011-07-27 01:32:21
紫電P @sidenp

あー、とはいえ実務クラスでは潁川グループ健在とも言えたのか。三公も政策提言はよくやってたようではあるけど……。

2011-07-27 01:38:04
ちゃんなな@暫定垢 @syusyu07

@sidenp それでも総合的に鑑みれば十分かと。曹丕が帝位を継いだ当時はまだ穎川閥以外もあったのは事実ですけれども帝位を継いだ当時はまだ穎川閥以外も。という感じですし。

2011-07-27 01:45:23
紫電P @sidenp

@syusyu07 すみません、頭が寝不足でラリってるせいか上手くお返事を読み取れないですorz 二荀存命時は間違いなく曹操軍の主流であったはずですが、この時はそこまで皇帝が警戒するほどでもなかったろうなーと思って書いたのですが。

2011-07-27 01:52:21
ちゃんなな@暫定垢 @syusyu07

@sidenp 話の流れ的にもっと後の時代を想定しておりましたけれども?少なくとも二荀存命時の話ではなくてそれ以降の話をしていたつもりですがと。

2011-07-27 01:56:39
紫電P @sidenp

@syusyu07 昨晩は半分寝ぼけながらやり取りしたせいで中途半端になってすみません。昼休みの間に考察のようなものをしたので、礼儀としてテキスト化した上で後ほどツイッター上で返信させていただきます。

2011-07-27 18:40:02
紫電P @sidenp

曹丕即位後の潁川グループの影響力について http://t.co/6SigHfc 昨晩半分寝た状態で首を突っ込んだために中途半端になった@syusyu07 氏のツイートに対する話をもとに、曹丕即位段階での朝廷内の穎川グループについて考えてみる。氏への意見というより個人的なまとめ。

2011-07-27 19:49:29
紫電P @sidenp

まず賈詡が三公になった、曹丕即位時について。賈詡は太尉だが、司徒は相国だった華歆、司空が王朗。賈詡の死後は、失脚を経て廷尉に復帰していた鍾繇が太尉となった。曹丕期はこの三人の体制が継続され、曹叡期に彼らが死んだため陳羣がようやく司空となったり、董昭が司徒になったりしている。

2011-07-27 19:54:44
紫電P @sidenp

ただし陳羣は、曹丕即位後から尚書令、南征後に鎮軍大将軍にはなっているので、九品官人法制定の経緯からしてもかなり早い段階から準宰相ポジションではあった。では他の潁川グループはどうか。荀氏は二荀の死後は夭折もあり役職面ではパッとしない。鍾氏も相国だった鍾繇が一度免職になっている。

2011-07-27 19:56:42
紫電P @sidenp

荀彧の娘婿で事実上の後継者(渡邉義浩氏)であった陳羣は前述の通りだが、彼と共に並べられた潁川出身者としては杜襲、趙儼、辛毗がいる。

2011-07-27 19:59:25
紫電P @sidenp

杜襲は曹操が魏公の時点で既に侍中で、三公九卿に次ぐ実務の重職。曹丕期後半に尚書に昇るが、当時は督軍糧御史。死後に九卿の少府。 趙儼は曹丕が王位を継いだ際に侍中。三公が決まった頃には、附馬都尉か典農中郎将・河東太守のどちらか。240年代まで生きて驃騎将軍、司空になる。

2011-07-27 20:00:49
紫電P @sidenp

辛毗は曹丕が帝位に昇った段階で侍中で、三人ではやや出世が遅い。曹叡期には寵臣の孫資・劉放と距離を置いたため九卿の衛尉止まり。陳羣以外の同世代を見るに、二荀や郭嘉が健在の頃ほど力は強くないと思われる。この段階で陳羣を宰相級としても、他の三公九卿は魏諷の乱で一度失脚した鍾繇のみ。

2011-07-27 20:04:15
紫電P @sidenp

一方で華歆・王朗は鄭玄らでおなじみのの北海系グループ(渡邉義浩氏の説)の系統であり、曹丕期においても同グループからは鍾繇の廷尉の後釜に高柔が抜擢され、鄭玄系の王基を王朗が取り立てようとしていた。(ただし右腕を手放したがらなかった王凌の反対で頓挫)

2011-07-27 20:06:52
紫電P @sidenp

北海グループでも王脩や国淵が既に世を去ってはいるが、この時点においては北海系は潁川グループと五分程度の勢いがあった可能性がある。少なくとも、三公九卿や軍人の三品クラスに占める割合を考えても、当時の潁川グループには皇帝を脅かすほどに朝廷を牛耳れる、圧倒的な勢力はなかったはずである。

2011-07-27 20:16:38
紫電P @sidenp

さて、きっかけとなったツイートに対する意見であるが。皇帝が潁川や北海系のグループに対抗するのに、処世術に徹して過大な権力と粛清から逃れてきた賈詡を投入するのは少々不自然。賈詡ならずとも、2グループ+αの拮抗に近い状態であった中にバランサー目的で功臣を入れる効果も必要性も少ない。

2011-07-27 20:19:16
紫電P @sidenp

曹丕が賈詡を重用して日食の際も庇ったたのは、後継者問題で自分側に立って支援してくれたこと、加えて先代からの信用できる御意見番と認めていたためという説を採る方が自然であろう。曹丕もかつて賈詡の策で死にかけたが、それでも使うという君主の度量を示したというのも多少はあるかもしれないが。

2011-07-27 20:22:00
紫電P @sidenp

そもそも楊俊や鮑勛、蘇則などの例を見る限り、君主の力を示すためもあるのか九卿、あるいは侍中クラスでも平気で処刑、左遷してしまえるのが曹丕である。七十半ばで今にも死にそうなの功臣を使って、回りくどい策を練るタイプでもないのではないだろうか。

2011-07-27 20:24:04
紫電P @sidenp

おしまい。とりあえず追加してきます。

2011-07-27 20:24:44