桂吉坊さんの #今日の辻占 です

2020年12月27日から落語家の桂吉坊さんが毎日投稿されている#今日の辻占は#なんとなく開いた頁から選ばれた和歌一首を投稿されていますが、どんどん解説が詳しくなってきていて読むのが楽しくなってきたのでまとめてみました。 時間は逆順です。 吉坊さん、FBではツイッターよりも詳しく解説されています。読み応えあります。
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桂吉坊 @kichibo_rakugo

お供していた。秋の道を二人で何か喋ったのだが、よく思い出せない。 忘れると、人は二度死ぬと言うが、いつまでもその人を思い過ぎてもダメとも言う(ほなどっちやねん)。 思わなさ過ぎても、思い過ぎても、具合悪いてなもんですかね。

2021-04-02 08:50:15
桂吉坊 @kichibo_rakugo

ふと、思い出す事がある。 あの時、自分を見ていた、あるいは誰かを見ていた眼差しや、何でもない話の端々。音はなく、その光景だけがクッキリと目に浮かぶ事もある。 今朝、大師匠と旅をしている夢だった。僕が内弟子の頃の大師匠で、コートを着、旅というより旅の仕事の合間に出来た空き時間の散歩を

2021-04-02 08:49:22
桂吉坊 @kichibo_rakugo

二十代のはじめに、母、父を亡くし、妻は幼子を遺して世を去る。終戦後、次男をシベリア抑留中亡くす。 「鉦鳴らし信濃の国を行き行かばありしながらの母見るらむか」 「其子らに捕らへられむと母が魂蛍となりて夜来たるらし」 「むごきかなあはれむごきかなかはゆき吾子」(長歌)

2021-04-02 08:48:13
桂吉坊 @kichibo_rakugo

「よきところ一つある人は稀なるをさな求めそといはしきわが父」窪田空穂 #今日の辻占 #なんとなく開いた頁から選ぶ #日本名歌集成 #鏡葉 歌人にして国文学者。芸術院会員で文化功労者。日常をうたいつつ、その中に滲む心中を表した歌は多く「境涯詠」と言われる。 明治から昭和を生きた人。

2021-04-02 08:47:58
桂吉坊 @kichibo_rakugo

禅を誠拙和尚に学んだという。無常を謳うものが多いと見えるのはそのせいか。 また、言葉の繰返しなどの使い方にも、特徴があるように思える。 「なにごとも此のころにはと思ひつる三十(ミソヂ)の年の果てぞ悲しき」 …刺さる。 写真は山桜ならぬ、公園の桜に競う若紅葉。 pic.twitter.com/VXtLAsrKhh

2021-04-01 08:56:53
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桂吉坊 @kichibo_rakugo

「今すめる月や都の空ならむ思ふ人みな見えわたるかな」 「袖のうへに人の涙のこぼるるは我がなくよりも悲しかりけり」 「玉の緒は長くみじかき世なりけり又あはざらむまたや逢ふらむ」 「無きを夢有るをうつつと思ひけりなほ世の中を世の中にして」

2021-04-01 08:55:44
桂吉坊 @kichibo_rakugo

絶えず流れる川の水が再び同じところに還る事はなく、水面に今年も同じ桜が咲く。対比であるが山桜は、嵐山の桜のことで、昔吉野から移して植えられ一時は枯れてしまい、江戸の中頃再び勢い盛んになったという。同じ所に咲く桜もまた、移ろうもので、それを見ている者も皆、去年と同じという事はない。

2021-04-01 08:55:20
桂吉坊 @kichibo_rakugo

当時斬新な歌風は江戸歌壇からも大天狗・切○丹・気○いとボロクソに言われ、冷泉家ほかからも、相当に非難されたが、門人は次第に増え、桂園派と呼ばれ後世にのこる。 小説家 志茂田景樹の名はこの香川景樹からとは、有名な話。

2021-04-01 08:54:16
桂吉坊 @kichibo_rakugo

「大堰河かへらぬ水に影見えてことしもさける山桜かな」香川景樹 #今日の辻占 #なんとなく開いた頁から選ぶ #日本名歌集成 #桂園一枝 鳥取藩士の次男坊として生まれ、26の年に京へ。按摩などしながら苦学の末、梅月堂香川景柄の養子となる(後に独立したので養子は解消されるも、香川姓は許される)。

2021-04-01 08:53:38
桂吉坊 @kichibo_rakugo

吾天保の民なり古人にあらずと言う作者は、僕らにはもはや古の人であるが、その情景を髣髴とさせる歌風は、時代を超えて令和の人に伝わる。 明治に変わろうとする寸前、時代の境目に生きた人である。

2021-03-31 09:10:10
桂吉坊 @kichibo_rakugo

「流れくる花に浮びて戯(ソバ)えてはまた瀬をのぼる春の若鮎」 「妹(イモ)が背に眠(ネブ)るわらはのうつつなき手にさえめぐる風車かな」 「引きつれて大路いづなり馬車(ウマグルマ)また馬車牛車(ウシグルマ)牛(ウシ)」 また大坂では 「紀津川に安治川に入る船の帆の行く方わかつ住吉の沖」

2021-03-31 09:09:49
桂吉坊 @kichibo_rakugo

やがて福岡に帰郷しその生涯を終えるまで、作った歌は十万余首。親しみやすさの一方、歌壇では一段下に見られていたが、明治31年、神田の古本屋で『草径集』を見つけた佐々木信綱により光当てられ、今に至る。松ぼっくりの落ちたのを見てハテ今日は何かあったかしらんと、考えるこの歌もいいが、

2021-03-31 09:07:45
桂吉坊 @kichibo_rakugo

一日100首を弟子はもちろん自分にも課して、初孫誕生の時にだけは60首とさぼった。 六十歳で大坂は中之島に住まいを移し、豪商鴻池らとの交流もしながら、今橋、天満と、十年余りを暮らす。自家撰集『草径集』三巻が限定100部で出版されたのが文久三年のことであった。

2021-03-31 09:06:38
桂吉坊 @kichibo_rakugo

幼少から学んだ師 二川相近の元を離れ家督を譲り独自の歌風を立てんとしたのが39歳。桜と酒を愛し琴・三味線、鼓も打つ。歌会で浄瑠璃も語れば書にも優れる。本姓は舎人親王の流れを汲む清原氏だが、師匠相近は、藩の料理人頭を免除され、雅楽をはじめ詩歌管絃で重用された人でその才をも継いだのか。

2021-03-31 09:06:10
桂吉坊 @kichibo_rakugo

「これのみや今日はありつることならむ松の実ひとつ落ちし夕暮れ」大隈言道 #今日の辻占 #なんとなく開いた頁から選ぶ #日本名歌集成 #草径集 「古人は師なり、吾にはあらず。吾は天保の民なり、古人にはあらず。みだりに古人を執すれば、吾身何八何兵衛なることを忘る…」 福岡生まれ。

2021-03-31 09:05:03
桂吉坊 @kichibo_rakugo

会うは別れの始まりと言えど、満ち欠けする月のようにいずれ巡り会うし、死は終わりでは無い。さてそうなると僕らは終わりのない世界にいるのだろうか。

2021-03-30 08:53:41
桂吉坊 @kichibo_rakugo

お坊さんの法話や説教を聞いて、死ぬのが怖くなくなったとか、果ては落語「地獄八景亡者戯」聞いて死ぬのが怖くないと言わはった三味線のネエサンもおられる。落語に至っては、話の始まりがいきなり死んでいるのだから怖いも何も…てなもんだが、死の捉え方についてはその延長上だと思う。

2021-03-30 08:52:27
桂吉坊 @kichibo_rakugo

「めぐりあう」「雲の上まで」などと、何か似ている気がした。 死は終わりではなく、一過性のものとして見る事で、心中物の「蓮の台で所帯を持とう」では無いが、そこに未来を感じ、死を恐れる気持ちが薄れる。俗に言う「あの世」の観念?は、物心ついた時には既に身の回りにあった気がするが、

2021-03-30 08:51:03
桂吉坊 @kichibo_rakugo

歌の意味としては相手に対して、例え雲居の遠く離れた所へ行っても、再び巡り会うだろうから忘れてくれるなよという気持ちに読んだ。 『義経記』の、 弁慶「六道の道の巷に待てよ君 おくれ先だつ習ひありとも」に対し、 義経「のちの世も 又のちの世も めぐりあへ 染む紫の 雲の上まで」と詠んだ最期。

2021-03-30 08:49:44
桂吉坊 @kichibo_rakugo

そして『伊勢物語』11段に、この歌は登場する。しかし、東国へ出かけた昔男が旅先にて「とも」に送った歌とされている。 橘長盛の息子とされるが、本当にそうだとすると『伊勢物語』のできた時代と計算したら飛び抜けて若いはずだそうで、この歌の作者としてを怪しむ声もある。それは兎も角(エエンカ)

2021-03-30 08:47:47
桂吉坊 @kichibo_rakugo

「忘るなよほどは雲居になりぬとも空ゆく月のめぐりあふまで」橘忠幹(タチバナノタダモト) #今日の辻占 #なんとなく開いた頁から選ぶ #日本名歌集成 #拾遺和歌集 謎が多い。 まずこの橘忠幹が、よく分からない。拾遺和歌集では、この人が好きな女性に別れる時に詠ったとの詞書。

2021-03-30 08:46:44
桂吉坊 @kichibo_rakugo

「必ず一の裏が六で、二の裏が五、三の裏が四で、上下と合わせると七になる。全部の目を合計すると二十一になるてな、こんな事は学校では教えてくれしまへんさかいな、」(桂米朝「狸の賽」マクラ) はい、師匠に習いました。

2021-03-29 09:57:03
桂吉坊 @kichibo_rakugo

サイコロはそれに使う道具として飛鳥時代以前に中国から渡ってきている。ただ読むと「そらそやろ」な歌に聞こえるが、その後に何か含み笑いのような、余韻がある。 双六は、バクチとしてもメチャクチャ流行ったようで(昨日の辻占の白河天皇も言うてた)、日本で最初の禁止令出したのは持統天皇。

2021-03-29 09:06:17
桂吉坊 @kichibo_rakugo

この人、遺る歌の半分以上が即興。それも「三題噺」ではないが、そこにあるものを織り込んだ歌がとても多い。さて今日の歌は「一二の目」が、賽の目は勿論だが、人間の目も指しているという説。人間の目は二つしか無いけれど、賽の目には…てな感じであろうか。 双六は、今の双六とだいぶ様子が違う。

2021-03-29 09:05:42
桂吉坊 @kichibo_rakugo

主に渡来人や国造に与えられたというので、渡来人と言われている。官人としての位は下だったようだが、文武・持統天皇の行幸に携わったのが、万葉集の歌から分かる。 能「芦刈」の中に歌が採用されている。笠の段と呼ばれる中に「大宮の内まで聞ゆ網引すと網子ととのふる海人の呼び声」がそれという。

2021-03-29 09:03:20
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