2021.03.21 青天を衝け(6)「栄一、胸騒ぎ」放送後の桐野作人先生による解説ツイート<更新>

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桐野作人 @kirinosakujin

大河ドラマ「青天を衝け」第6回。血洗村に突然現れた道場破りの真田範之助の登場だが、時期的に少し早いか。渋沢の従兄、尾高長七郎は早くから江戸に出て撃剣の修業をしていた。渋沢もその影響を受けて江戸に行き、儒者海保章之助の塾に通いながら、お玉ヶ池の千葉道場で修業している。#青天を衝け

2021-03-21 20:46:39
桐野作人 @kirinosakujin

渋沢の自伝「雨夜譚」によれば、千葉道場に通った文久元年(1861)頃、渋沢は同門のなかで真田範之助と知り合っている。ドラマはこの人物を早めに登場させたか。この間、長七郎は兄惇忠の後ろにいて目立たなかったが、急に目立ってきたのは、坂下門外の変の嫌疑を受けるから、その伏線か。#青天を衝け

2021-03-21 20:46:39
桐野作人 @kirinosakujin

ドラマでは渋沢と慶喜のストーリーが同時並行的に描かれていたが、今回の最後についに両者が交わった。ただ、場所的にはどうか? 渋沢は紺屋への買付に信州か上州に行こうとしていたように見えたが、慶喜は乗馬好きとはいえ、遠馬は江戸より南の神奈川や鎌倉が多いようである。#青天を衝け

2021-03-21 20:46:40
桐野作人 @kirinosakujin

慶喜の遠馬について史料で残っているのは江戸より南が多く、北に遠馬することはあまりないのではないか。だから、両者がドラマのような形で会うのは考えにくいのではないか。それはまあ、両者の遭遇を描くための創作だろう。実際に両者が出会うのはだいぶあとだろう。#青天を衝け

2021-03-21 20:46:40
桐野作人 @kirinosakujin

大河ドラマ「青天を衝け」第6回。薩摩藩主島津斉彬の養女篤姫の江戸到着があった。安政大地震によって、将軍家定との婚礼は1年ほど延びて、安政3年(1856)12月だった。ドラマではまだ婚礼以前である。篤姫の呼び名を篤君としたのがやや奇異に感じられたと思う。篤姫の名前の変遷だが、#青天を衝け

2021-03-21 20:55:49
桐野作人 @kirinosakujin

篤姫は島津家でも徳川の御三家のような島津一門四家のひとつ、今和泉家の生まれで、はじめ一子と名乗った。本家の藩主斉彬に見出されて養女(徳川家に対しては実子扱いとした)となり、篤姫と名乗った。その後、将軍家定との婚姻に際して、島津家は徳川将軍家とは家格が釣り合わない。#青天を衝け

2021-03-21 20:55:50
桐野作人 @kirinosakujin

将軍家は皇女か摂関家の娘を娶るのが通例だった。またかつて11代将軍家斉の御台所となった茂姫’(島津重豪の娘)の先例にならって、篤姫は親戚筋の近衛忠煕の養女となり、篤君と名乗りを変え、実名を敬子(すみこ)とした。ドラマで篤君だったのは近衛家の姫という意味合いである。#青天を衝け

2021-03-21 20:55:50
桐野作人 @kirinosakujin

その後の名乗りは、江戸城に入った安政3年(1856)11月、大目付の名で「篤君」から「姫君様」と名乗りを変えると幕府が布告している。さらに同年12月18日、婚礼になると、「姫君様」から「御台様」とさらに名乗りが変更になっている。次回から将軍家定との結婚生活が描かれるか? #青天を衝け

2021-03-21 20:55:50
桐野作人 @kirinosakujin

一橋慶喜と一条美賀子の縁組も描かれた。美賀子はドラマで紹介されたように清華家(摂関家の1ランク下)の今出川家(菊亭家)の当主、三位中将実順(さねあや)の妹で名は延君といった。はじめ、摂関家の一条家から千代君が廉中候補だったが、病身で破約となる。#青天を衝け

2021-03-21 21:25:13
桐野作人 @kirinosakujin

当主の一条忠香(権大納言左大将)は代わりに今出川家の延君を養女として、慶喜との縁組が成立した。なぜ養女にしたかといえば、清華家は御三卿より家格が下だったから。一橋屋形の歴代簾中は将軍家の姫か他の御三卿の姫以外では宮家か摂関家の姫が嫁ぐ慣習だった。#青天を衝け

2021-03-21 21:25:13
桐野作人 @kirinosakujin

延君は一条家の養女となると、篤君同様、美賀君と呼ばれた。美賀君と慶喜の婚礼は篤君と将軍家定より1年早く、安政2年(1855)12月に挙行された。美賀子の名乗りは厳密にいえば、明治になってからの解明である。ちなみに慶喜より2歳上の姉さん女房だった。#青天を衝け

2021-03-21 21:25:14
桐野作人 @kirinosakujin

ドラマでは美賀君の派手な狂乱の様子が描かれた。理由はおそらくひとつで、慶喜の養母、徳信院(先々代一橋慶寿の廉中)への嫉妬であるのは間違いない。慶喜と徳信院は非常に親密だったらしい。2人の秘めやかな関係を示す福井藩主松平慶永宛ての宇和島藩主伊達宗城の書状がある。#青天を衝け

2021-03-21 21:25:14
桐野作人 @kirinosakujin

松平慶永は徳信院の亡夫一橋慶寿の弟だから、徳信院は兄嫁になる。なお、徳信院は宮家の伏見宮貞敬親王の姫、直子である。伊達宗城書状は「橋公(慶喜)の閨君(美賀君)が先頃、自刃しようとした件で、貴方(慶永)は徳信院と橋公の云々が原因だと思っているようだが、#青天を衝け

2021-03-21 21:25:14
桐野作人 @kirinosakujin

徳信院のご容姿は美賀君とは天地ほどの差があるから、貴方も御亡兄のために何かとご心痛だろう」。いやはや、宗城さん、あけすけですね。これ以上はご想像下さい。ともあれ、文久年間以降、慶喜はほとんど在京するので、美賀君とは別居状態になった。薄倖な生涯だったのだろうか。#青天を衝け

2021-03-21 21:25:15
桐野作人 @kirinosakujin

美賀君の追加。ドラマで慶喜が徳信院と一緒に謡いをしていたところに美賀君が乱入してくる場面があったが、これは実話のようです。松平慶永の生母青松院によれば、「(謡いの)その座にて(美賀君が)ただちに御声を発し、刑部卿様(慶喜)をおこづき、御立腹あらせられし」とのこと。#青天を衝け

2021-03-21 21:30:45
桐野作人 @kirinosakujin

ドラマで米国の初代駐日総領事のタウンゼント・ハリスが下田に上陸する場面あり。ハリスは日米和親条約の締結により赴任し、通商修好条約の締結を最大の目的にしていました。とくに将軍家定への拝謁を希望します。両者の対面の場面が次回くらいに描かれるかどうか? #青天を衝け

2021-03-21 21:46:44
桐野作人 @kirinosakujin

疲れたので今日は下田の関連写真の紹介をば。ハリスが領事館とした下田の玉泉寺やドラマ紀行でも紹介された渋沢の名前がある碑文、ストーブの煙出し口など。カーター元大統領も訪問していますね。 #青天を衝け pic.twitter.com/zbOfxRePBd

2021-03-21 21:46:45
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桐野作人 @kirinosakujin

連れしょんべんといえば、小田原の石垣山城での秀吉と家康のそれを思い出した人も多かっただろうな。 #青天を衝け

2021-03-21 21:53:08
桐野作人 @kirinosakujin

一橋慶喜と将軍継嗣問題について重要な場面もありました。福井藩士の橋本左内が慶喜側近の平岡円四郎に、慶喜がどういう人物か教えてほしいと申し出た件。いわゆる「橋公略行状」「橋公御行状記略」の伏線。南紀派との将軍継嗣問題を有利に運ぼうとして、慶喜の行状を詳しくまとめたもの。#青天を衝け

2021-03-21 22:21:50
桐野作人 @kirinosakujin

「橋公御行状記略」にも、慶喜が武術や馬術が得意で、とくに馬術は保土ケ谷や金沢あたりまで遠馬することが書かれている。「行状記」をまとめた左内はこれを主君松平慶永に披露し、慶永は老中の松平忠固に送っている。「行状記」は大奥などを含め、各方面に写しが配付されたようである。#青天を衝け

2021-03-21 22:21:50
桐野作人 @kirinosakujin

薩摩藩にも配付されており、西郷吉之助も読んでいる。この頃、西郷は7歳年下の橋本左内を崇敬して「我、同輩においては橋本景岳(左内の号)に服す」と述べる。また西郷が城山で最期を迎えるとき、「行状記」を懐中に入れていたとも伝わる。#青天を衝け

2021-03-21 22:21:51