2021.03.28 青天を衝け(7)「青天の栄一」放送後の町田明広先生による解説ツイート

本日は「青天を衝け」7回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
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町田 明広 @machi82175302

本日は「青天を衝け」7回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。#青天を衝け

2021-03-28 17:39:26
町田 明広 @machi82175302

「青天を衝け」7回目を拝見!今日は栄一と千代の青春譚、胸熱な展開だった。タイトル「青天を衝け」を回収する画期の回であり、かつ政治ドラマとしても、慶喜を軸にした通商条約や将軍継嗣の問題が巧みに織り込まれ、たくさんの登場人物がうまく整理されて配され、ドラマとして秀逸だった。#青天を衝け

2021-03-28 20:45:46
町田 明広 @machi82175302

今回、特に印象に残ったのが、家定と直弼の「出会い」もさることながら、一橋慶喜が美賀君に将軍になりたいかを問われたところ。慶喜が将軍継嗣問題に巻き込まれ、最後の将軍に就任する未来が暗示され、このエピソードを回収する回が楽しみになった。草彅慶喜の憂いある表情が良かった(^^)#青天を衝け

2021-03-28 20:46:50
町田 明広 @machi82175302

老中阿部正弘(1819~57)が亡くなった。天保14年(1843)に25歳で老中となると、安政4年(1857)の逝去時までその地位に止まり、12代将軍家慶、13代家定の幕政を統括した。阿部は生前、体調不良も相俟って、外交に積極的な堀田正睦に老中首座を譲っていた。#青天を衝け

2021-03-28 20:47:36
町田 明広 @machi82175302

堀田正睦(1810~1864)について、日本大百科全書によると、幕末の幕府老中。下総国 (千葉県)佐倉藩主。幼名は左源次。初名正篤。相模守のち備中守を称し、見山と号す。文化7年8月1日、正時の末子に生まれる。1825年(文政8)佐倉藩11万石の家督を継いだ。#青天を衝け

2021-03-28 20:48:06
町田 明広 @machi82175302

堀田正睦は1834年(天保5)寺社奉行、1837年大坂城代を経て1841年老中となり、水野忠邦の天保の改革に参与、1843年辞職して帰藩し藩政改革に尽力。社倉の建造などの農村対策や藩士教育を重視し、蘭学を取り入れて西洋医学を興すと共に、洋式兵制を採用して「蘭癖」と評された。#青天を衝け

2021-03-28 20:49:15
町田 明広 @machi82175302

ペリー来航後、堀田正睦は老中阿部正に推されて、1855年(安政2)老中首座となり、外交の難局にあたった。勘定奉行川路聖謨や目付岩瀬忠震らの有能な開明派官僚を重用してアメリカ領事ハリスとの通商交渉に対処した。#青天を衝け

2021-03-28 20:49:43
町田 明広 @machi82175302

1857年、堀田正睦は将軍に謁見したハリスとの会談により通商条約締結を決意し、諸大名に諮問を行うとともに、通商条約の勅許によって諸大名の反対を抑えようと、1858年上洛した。勅許工作は失敗して江戸に帰り、将軍継嗣問題では、朝廷に信任のある一橋慶喜を推し、朝幕の和解を期した。#青天を衝け

2021-03-28 20:50:16
町田 明広 @machi82175302

しかし、突如、井伊直弼が大老に就任したために、堀田はこれも失敗し、日米修好通商条約の調印がなるのを待って罷免され、さらに違勅調印の責を負わされて隠居に処された。その後、1862年(文久2)老中在職中の外交取扱不行届の廉で蟄居を命じられた。元治元年3月21日没。#青天を衝け

2021-03-28 20:51:18
町田 明広 @machi82175302

阿部・堀田が仕えた徳川家定(1824~1858)について、日本大百科全書によると江戸幕府第13代将軍で12代将軍家慶の第4子。幼名政之助、初め家祥。ペリー来航直後の1853年(嘉永6)7月家督を継ぎ、10月将軍宣下。内外多難であったが、病弱で老中阿部正弘らに政務を一任した。#青天を衝け

2021-03-28 20:52:06
町田 明広 @machi82175302

1857年(安政4)10月、徳川家定が米国総領事ハリスを江戸城中に引見したことは、後にハリスの『日本滞在記』で広く紹介された。実子がなかったために、後継者を巡って将軍継嗣問題が起こり、また日米の通商条約も勅許を得られず、政局が激動した。#青天を衝け

2021-03-28 20:52:34
町田 明広 @machi82175302

1858年4月、井伊直弼が大老に就任すると、紀伊藩主徳川慶福(のち家茂)を継嗣と定め、ついで6月、通商条約調印を強行し、7月、政局紛糾のなかに病死した。法号温恭院。ちなみに、ドラマでは登場しない家定の生母は本寿院。江戸幕府の12代将軍・徳川家慶の側室であった。#青天を衝け

2021-03-28 20:53:36
町田 明広 @machi82175302

本寿院は、文政7年(1824)に13代将軍徳川家定の生母となった。他にも2男児を出産しているが、いずれも早世した。本寿院は落飾後の院号、実名は美津、堅子。人となりについて、特段のエピソードはないが、水戸斉昭・一橋慶喜父子を嫌っていたことは間違いない。#青天を衝け

2021-03-28 20:53:56
町田 明広 @machi82175302

天璋院篤姫(1835~1883)について、日本大百科全書によると徳川13代将軍家定の正室。名は篤子(あつこ)、のち敬子(すみこ)。通称篤姫。幼名は於一(おかつ)。幕府の消滅に立会い、徳川本家廃絶・江戸城武力攻略の回避に力を尽くし、明治期には徳川本家の家格・家名の維持を目ざした。#青天を衝け

2021-03-28 20:55:13
町田 明広 @machi82175302

篤姫の父、島津忠剛は島津家家臣のうち最上級とされる「一門家(四つの分家)」の一つ、今和泉島津家(石高1万3000石)5代目。幕府は11代将軍家斉に1789年(寛政1)嫁いだ島津重豪の娘茂姫にあやかって、家定の室を島津家からめとりたいと、島津藩世子の斉彬(後の11代藩主)に打診。#青天を衝け

2021-03-28 20:55:37
町田 明広 @machi82175302

その候補として今和泉島津家の於一が選ばれた。於一は斉彬の養女となった。さらに右大臣、近衛忠熈(1808―98)の養女として、1856年(安政3)家定との婚儀が行われ、御台所となった。次期将軍に慶喜を望んだ一橋派・斉彬の懇請に従ったが、周囲に反対され実現できなかった。#青天を衝け

2021-03-28 20:56:01
町田 明広 @machi82175302

繰り返すが、安政3年(1856)12月に家定に輿入れするが、その発端は、11代将軍家斉・茂姫(薩摩出身)の長命や子孫繁栄にあやかりたいという、家定本人の強い意向があったからで、本寿院が、家定に篤姫を強く勧めたためではなく、また、斉彬からの要望でもなかった。#青天を衝け

2021-03-28 20:56:44
町田 明広 @machi82175302

家定が1858年に没すると落飾して天璋院の号を得、従三位に叙せられる。その後大奥の取締りにあたる。1867年(慶応3)15代将軍慶喜が大政を奉還すると、徳川家の存続と官軍の江戸城攻め回避のため、静寛院宮(和宮)らとともに尽力した。#青天を衝け

2021-03-28 20:57:26
町田 明広 @machi82175302

篤姫は1868年7月、官軍に反発、奥羽越列藩同盟に官軍討伐を願った。その後一橋邸、紀伊藩邸、尾張藩邸、相良藩邸と移り、徳川16代当主家達のいた徳川千駄ヶ谷邸で過ごし、1883年(明治16)11月20日、満47歳で没した。#青天を衝け

2021-03-28 20:57:48
町田 明広 @machi82175302

篤姫は、徳川家処分の際に位記を剥奪されていたが、従三位に復し、上野の家定の墓域に埋葬された。篤姫というと、宮崎あおいのイメージが強いが、上白石萌音も好演では(^^)#青天を衝け

2021-03-28 20:58:11
町田 明広 @machi82175302

前回からはハリス(1804~ 1878)が登場した。安政3年(1856)7月、通弁官ヒュースケンとともに日米和親条約で開港された下田に上陸し、玉泉寺を総領事館と定めた。そして、直ちに出府を希望し、江戸での通商条約交渉を開始したいとの意向を示した。#青天を衝け

2021-03-28 21:01:07
町田 明広 @machi82175302

ハリスは、イギリス使節バウリングが来航する前に米国と条約が締結されていれば、それ以上の内容を要求しないことを明言。そうなれば、イギリスとの交渉で武力に屈したため、通商条約を結んだという不名誉を被らず、更に、イギリスと戦争になれば、蝦夷地は領有されるとの見解も示した。#青天を衝け

2021-03-28 21:01:33
町田 明広 @machi82175302

ハリスは、自由貿易による利益の大きさを説くことも忘れていなかった。当時のイギリスは、世界中に植民地を持つ日の沈まない帝国主義国家として君臨し、アジアを蹂躙する世界最強の国家として自他ともに認めていた。ハリスはことさらイギリスの脅威を強調し、交渉を優位に運ぼうとした。#青天を衝け

2021-03-28 21:01:48
町田 明広 @machi82175302

ハリスの江戸行き要請を拒み続けていた幕府であったが、ハリスが米軍艦によって出府を強行する事態を恐れ、ついに老中堀田正睦は、岩瀬忠震が主導する大目付・目付グループの意見を採用して出府を認め、安政4年10月14日、ハリスは江戸に到着し、宿舎に指定された蕃所調所に入った。#青天を衝け

2021-03-28 21:03:11