2021.04.04 青天を衝け(8)「栄一の祝言」放送後の町田明広先生による解説ツイート

本日は「青天を衝け」8回目です。今回も可能な限り、地上波放送後、感想やミニ知識をつぶやきますので、よろしければご一読ください(^^) なお、あくまでも個人的な見解ですので、ご理解いただける方のみ、お願いいたします。
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町田 明広 @machi82175302

「青天を衝け」8回目を拝見!今日も栄一と千代の青春譚、また喜作との友情もあり、胸熱で秀逸な展開だった。今日の主役は慶喜。慶喜を軸に井伊直弼をうまく配して、複雑な政治展開を巧みに緩和した。それにしても、草彅慶喜の演技が素晴らしかった。登城禁止になった表情、鬼気迫る演技‼️ #青天を衝け

2021-04-04 20:45:40
町田 明広 @machi82175302

本日の隠れた主人公である井伊直弼(1815~1860)について、日本大百科全書をベースにして、簡単にその生涯を紹介しよう。言わずと知れた江戸末期の幕府の大老であり、彦根藩第13代藩主。日米修好通商条約を違勅調印し、安政の大獄の中心人物。桜田門外で暗殺された。#青天を衝け

2021-04-04 20:46:46
町田 明広 @machi82175302

直弼は、文化12年12月29日、彦根藩35万石の第11代城主直中の14男として彦根城内に生まれる。母は側室お富の方(江戸麹町隼町伊勢屋十兵衛の女)。父50歳、母31歳の時の子で、直中は既に家督を直亮(三男、第12代藩主)に譲っていた。高齢になっていた両親の愛を一身に集めて成長した。#青天を衝け

2021-04-04 20:47:26
町田 明広 @machi82175302

1831年(天保2)、17歳の直弼は井伊家の家風に従って、藩から300俵の宛行扶持をもらい、彦根城中の槻御殿を出て、第三郭の尾末町の北の御屋敷に移った。この北の御屋敷を埋木舎と名づけ、1846年(弘化3)直亮の養子となるまでの15年間、ここで部屋住みの生活をした。#青天を衝け

2021-04-04 20:49:29
町田 明広 @machi82175302

井伊直弼が青春時代を過ごした舎、「埋木舎」。私も見学に伺ったが、必見のスポット。ぜひ、彦根城と共にご観覧ください。#青天を衝け hikoneshi.com/sightseeing/ar…

2021-04-04 20:49:58
町田 明広 @machi82175302

井伊直弼は、この埋木舎時代に「なすべき業」として、禅、居合、兵学、茶道(代表作『茶湯一会集 』)など教養を積んだ。さらに国学者長野義言(通称主馬、のち主膳、号を桃廼舎)に師事し、国学、歌道、古学などを学び、また彼を重用した。#青天を衝け

2021-04-04 20:51:14
町田 明広 @machi82175302

1850年(嘉永3)、直亮の死去により直弼は彦根藩を襲封、掃部頭と称した。時に数え年36歳。1853年のペリー来航以降、外圧によって幕藩体制は揺らぎ、翌1854年(安政1)の日米和親条約で幕府の「祖法」としての鎖国体制も動揺を来たすに至った。#青天を衝け

2021-04-04 20:52:50
町田 明広 @machi82175302

開国政策をとった老中堀田正睦は溜間詰大名に支持されたが、これらの譜代大名を牛耳っていたのが直弼であり、攘夷を主張する徳川斉昭(1800~1860)以下、松平慶永、島津斉彬らによって代表される大廊下詰家門大名、大広間詰外様大名と次第に対立するに至った。斉彬に出番はもうなしか?#青天を衝け

2021-04-04 20:53:30
町田 明広 @machi82175302

この対立は将軍継嗣問題と絡んでいっそう先鋭となり、家門・外様大名一派(一橋派)が、「年長、英明、人望」を将軍継嗣の原則として一橋慶喜(斉昭第7子)を担いだのに対し、直弼ら譜代大名の派(南紀派)は、「皇国の風儀」と「血脈」を強調して紀州藩主徳川慶福(のち家茂)を推した。#青天を衝け

2021-04-04 20:54:35
町田 明広 @machi82175302

1858年(安政5)4月、直弼は大老に就任し、将軍継嗣には慶福を決定。さらに勅許を得ないまま日米修好通商条約に調印した。継嗣問題に敗れた一橋派は、違勅調印を理由に一斉に井伊攻撃に立ち上がり、ここに反幕運動としての即時攘夷運動に火がついた。#青天を衝け

2021-04-04 20:55:48
町田 明広 @machi82175302

幕府の危機をみてとった直弼は、徹底した弾圧策をとり、翌1859年にかけて、いわゆる安政の大獄を引き起こした。直弼のこの弾圧政策は、1860年(万延1)3月3日の桜田門外の変として彼の横死を招いたのである。桜田門外の変は、もう次週のようですね!#青天を衝け

2021-04-04 20:56:46
町田 明広 @machi82175302

本日から登場した徳川家茂(1846~1866)について、日本大百科全書をベースにして紹介しよう。江戸幕府第14代将軍。紀州11代藩主徳川斉順(将軍家斉の子)の長子。つまり家定は従兄。弘化3年閏5月24日、赤坂の江戸藩邸に生まれる。幼名菊千代、のち慶福と称す。#青天を衝け

2021-04-04 20:58:22
町田 明広 @machi82175302

家茂は、12代藩主斉彊(斉順の弟)の養子となり、1849年(嘉永2)4歳で家督を継いだ。将軍継嗣問題で一橋派の推す慶喜に対抗する候補とされ、条約勅許問題と絡んだ激しい政争が展開した。南紀派の井伊直弼が大老に就任したのち継嗣と定まり、家定の死去により将軍職を継ぎ家茂と改めた。#青天を衝け

2021-04-04 20:59:13
町田 明広 @machi82175302

桜田門外の変による井伊横死後、老中久世広周、安藤信正らの画策により、1862年(文久2)孝明天皇の妹和宮を夫人に迎え公武合体による幕府権力の回復を計ったが、島津久光の率兵上京、久光と勅使大原重徳の東下によって幕政改革を迫られ、慶喜を将軍後見職、松平慶永を政事総裁職に迎えた。#青天を衝け

2021-04-04 21:01:06
町田 明広 @machi82175302

1863年(文久3)、家茂は慣例を破り自ら上洛、幕権回復を計ったが朝廷は即時攘夷派の勢力下にあり、攘夷祈願の賀茂社行幸に供奉させられた。しかし4月の石清水社行幸には随行を固辞して東帰した。その後、八月十八日の政変によって公武合体派が勢力を回復し、1864年(元治1)再度上洛した。#青天を衝け

2021-04-04 21:02:46
町田 明広 @machi82175302

長州藩が、第一次長州征伐ののちにふたたび抗戦の構えをみせたため、第二次の長州征伐となり、1865年(慶応1)、家茂は3回目の上洛ののち、大坂城の征長軍本営に入った。翌年6月に開戦された長州藩との戦争に、幕軍敗戦の報が相次ぐうちに、7月20日、21歳で城中に病死した。法号昭徳院。#青天を衝け

2021-04-04 21:03:53
町田 明広 @machi82175302

井伊直弼の描かれ方について、多くのご意見があることだろう。井伊の評価は難しい。ちなみに、私も井伊が赤鬼に化したのは「違勅調印」以降と考える。それ以前は、ややうっかりしたところもあったかも知れないが、その後の井伊は冷徹な政治家に変身したように感じる。#青天を衝け

2021-04-04 21:05:10
町田 明広 @machi82175302

本日の政治的なハイライトは、通商条約の調印と将軍継嗣問題の決着であった。老中堀田正睦は岩瀬忠震らを伴い、上京して勅許を求めたが失敗し、失意の中で江戸に戻った3日後の安政5年(1858)4月23日、井伊直弼が突如として大老に就任した。#青天を衝け

2021-04-04 21:06:42
町田 明広 @machi82175302

5月1日、家定は継嗣慶福を大老・老中に達し厳秘を命じた。5月2日・6月19日、事情を知らない松平春嶽は井伊に意見を求められ、継嗣は慶喜とすること、条約調印は先延ばしすることを申し入れるも不発、5月13日、伊達宗城は堀田・井伊に対し春嶽を京に派遣して勅問に奏答することを勧説した。#青天を衝け

2021-04-04 21:07:47
町田 明広 @machi82175302

伊達宗城の春嶽の京都派遣提案に対し、堀田は同意も井伊は不同意であった。なお、5月22日も同様に井伊は宗城からの直接の提案にも不同意を示した。5月15日、形勢不利と見た春嶽は堀田と会見、井伊も松平忠固も論破して建儲(将軍継嗣)の大策を定めるよう熱弁した。#青天を衝け

2021-04-04 21:08:31
町田 明広 @machi82175302

同日の5月15日、堀田は井伊に対し、継嗣も通商条約も違勅ではただではすまないと強弁するもやはり不発であった。なお、5月6日に大目付土岐頼旨が大番頭、勘定奉行川路聖謨が西丸留守居、5月20日に目付鵜殿長鋭が駿府町奉行に左遷されており、一橋派の弾圧が始まっていた。#青天を衝け

2021-04-04 21:08:54
町田 明広 @machi82175302

6月1日、幕府は三家以下溜詰諸侯に将軍継嗣決定(具体名なし)を告げ、翌2日に朝廷に奏聞し、勅裁をもって18日に発表の段取りであった。実は、朝廷からの返信は直ぐにあったものの(日付未詳)、堀田正睦はあえて井伊に告げず、一橋派のための時間稼ぎを行った。#青天を衝け

2021-04-04 21:11:12
町田 明広 @machi82175302

6月17日、ハリスより英仏連合軍が清との戦争に圧勝し、5日以内に連合艦隊が来航し通商条約を迫ると通告があった。18日、井上清直・岩瀬忠震は小柴沖碇泊の米艦ポーハタンに赴き、ハリスと条約調印に関し談判。早期調印をすれば英仏を米国がその線で抑えるとの言質を獲得した。#青天を衝け

2021-04-04 21:12:39
町田 明広 @machi82175302

6月19日の城中での大評議は混迷を極めたが、調印先送りを唱えたのは井伊大老のみであった。岩瀬らは現実を直視できずに逡巡する井伊を罵倒したが、井伊はまだ約束の猶予期間が40日ほど残っており、その間に勅許を得て、更には岩瀬ら海防掛などの敵対者の一掃を企図していた。#青天を衝け

2021-04-04 21:14:49
町田 明広 @machi82175302

井伊の裁断は、勅許を得るまでの調印延期であったが、岩瀬・井上は再び米艦に赴き日米修好通商条約14箇条・貿易章程7款に調印した。これは、やむを得ない場合は「調印やむ無し」の言質を井伊が与えていたことによる。もちろん、その責任は井伊に帰せられることになる。#青天を衝け

2021-04-04 21:16:01