韓国近代農業の父 禹長春

父親は韓国人、母親は日本人。日本で生まれ育ち、日本と韓国の二重国籍を持つ、韓国近代農業の父、禹長春(ウ・ジャンチュン 우장춘)博士の出自から紐解く日本と韓国の歴史の1ページ。
メモ 歴史 日本 韓国
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禹長春博士 韓国姓日本人 禹長春博士の場合

http://www.occn.zaq.ne.jp/cucrb300/kokuseki/4si.htm

韓国近代農業の父 禹長春

http://www7b.biglobe.ne.jp/~nikkan/coffee/coffieebreak.htm#ungaharu

すなつぶ @T_Katuragi
韓国農業の父、禹長春(ウ・ジャンチュン)博士。李氏朝鮮で絶大な権力を振るった王妃、閔妃暗殺に関わり日本へ亡命してきた韓国人と日本人女性の間に生まれた彼は、日本人として生きてきたが終戦後、食料問題解決のために韓国に招かれることになる。 http://t.co/wXGzNv1
すなつぶ @T_Katuragi
禹博士は日本で生まれ育ったため韓国語が話せなかった、また当時は政情が不安定で家族を伴うことは断念、単身での韓国行きとなった。最愛の母が亡くなった際、帰国が許可されないという悲運に見舞われたが、多大な成果を残し、韓国でその生涯を終えた。 http://t.co/I3j2FN6
閔妃の時代 李氏朝鮮の第26代王・高宗の妃

http://ja.wikipedia.org/wiki/閔妃

1873年 夫の父である興宣大院君を追放、閔妃は開国政策をとり、日本と日朝修好条規(江華島条約)を締結するなど積極的な開化政策を行った。日本から顧問を呼び寄せ、軍隊の近代化に着手した。

1885年になると、ロシアの南下政策を警戒しだしたイギリスなどを牽制するために親露政策もとりはじめる。

1894年に甲午農民戦争(東学党の乱)が起きると清軍と日本軍の介入を招き、日清戦争の原因と戦場になった。

日清戦争後、勝者である日本側の推す大院君派の勢力が強くなり、閔妃の勢力は衰退していく。そのため閔妃は、親露政策をさらに推し進め、7月6日にロシア軍の助力を得て権力奪還に成功する。

1895年10月8日早朝、景福宮に侵入した武装組織によって暗殺された。

1866年 閔妃、15歳で王宮に入る。
1868年 明治元年
征韓論

明治政府は李氏朝鮮との国交を求めたが、当時は興宣大院君のもと、鎖国攘夷政策をとっていたため、応じられなかった。
「征」の字から征服、植民地化を連想しがちだが、鎖国している李氏朝鮮との間に国交を持とうというのが主な主張
その手段として武力を用いるかどうかで明治政府内で意見が別れた。
板垣退助は派兵を主張。西郷隆盛は派兵に反対し、自身が大使として赴くと主張した。
http://ja.wikipedia.org/wiki/征韓論

1873年 明治六年政変

西郷隆盛の朝鮮使節派遣問題に端を発した政変。
当時の政府首脳である参議の半数と軍人、官僚約600人が職を辞し、
西南戦争に至る士族の反乱や自由民権運動のきっかけとなった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/明治六年政変

1873年 閔妃、興宣大院君を追放、権力を掌握。
1875年(明治8年)9月20日 江華島事件

日本からの国書受け取り拒否問題(書契問題)にからんだ武力衝突事件
http://ja.wikipedia.org/wiki/江華島事件

1876年 日朝修好条規

江華島事件を受けて日朝間で締結された条約。
朝鮮を独立国と認めたものの不平等条約であった。
http://ja.wikipedia.org/wiki/日朝修好条規

開化派と事大党 開化派

開化派(かいかは、朝: 개화파、ケファパ)は、李氏朝鮮末期の政治グループ。別称独立党。

明治維新などの影響を受けて1870年代に朝鮮宮廷内の青年貴族官僚(両班)を中心に形成され、日本と結んで朝鮮の清からの自主独立と近代化をめざした。1882年の壬午事変以後、清と結ぶ保守的な事大党と対立し、1884年、金玉均・朴泳孝らが中心となり日本の援助で甲申政変を起こし政権を握ったが、清の介入で3日で失敗し金玉均・朴泳孝らは日本に亡命した。1894年の日清戦争時に親日政権に参加し再び政権を握ったが、1895年事大党だった親露派に追われた。

事大党

事大党(じだいとう、朝: 사대당、サテダン)は李氏朝鮮末期の保守的な党派に対する、開化派からの呼称。別称守旧派。1882年の壬午事変から日清戦争に至るまで朝鮮の政界を10年間支配した。

1882年壬午事変で大院君を退けた閔氏一族を中心に形成され、日本と結んで清からの自主独立と政治の革新を主張する独立党(開化派)に対し、伝統を守って宗主国の清への臣属を主張し政権の維持をはかった。1884年の甲申政変ののちさらに清に接近し、優勢であったが、日清戦争に清が敗北し、乙未事変が起こるとともに衰え、多くは親露派に変わった。

(wikipediaより)

父・禹範善

禹長春博士の人生を語るとき、その父禹範善が日本に渡ってきた経緯は外せない。

禹範善(ウ・ボムソン、우범선、1858年 - 1903年11月24日)は乙未事変で閔妃殺害に加わった朝鮮王朝末期の武官。

http://ja.wikipedia.org/wiki/禹範善

彼は朝鮮王朝内で日本軍の支援を受けていた別技軍、訓練隊に所属していた。

1882年7月23日 壬午事変

1882年7月23日に、興宣大院君らの煽動を受けて、朝鮮の漢城(後のソウル)で大規模な兵士の反乱が起こり、政権を担当していた閔妃一族の政府高官や、日本人軍事顧問、日本公使館員らが殺害され、日本公使館が襲撃を受けた事件である。
http://ja.wikipedia.org/wiki/壬午事変

1884年12月4日 甲申政変

http://ja.wikipedia.org/wiki/甲申政変

日本の支援を受けた開化派によるクーデターだったが失敗に終わる。
支援者は福澤諭吉や大隈重信など。

1885年(明治18年)3月16日 脱亜論

新聞『時事新報』紙上に掲載された無署名の社説
http://ja.wikipedia.org/wiki/脱亜論

1889年(明治22年)2月11日 大日本帝国憲法 発布

日本は東アジアで初めて近代憲法を有する立憲君主国家となった。
開化派が目指していたのも立憲君主国家。

1894年(明治27年)7月〜1895年(明治28年)3月 日清戦争

http://ja.wikipedia.org/wiki/日清戦争

主に朝鮮半島(李氏朝鮮)をめぐる大日本帝国と大清国の戦争

1895年10月8日 乙未事変

李氏朝鮮の第26代国王高宗の王妃であった閔妃が暗殺された事件。韓国では「明成皇后弑害事件」とも呼ばれる。
http://ja.wikipedia.org/wiki/乙未事変

・閔妃殺害事件史料 1

この事件の後に、禹範善は日本に亡命し身を隠した。その後東京で亡命生活を送っている最中に日本人の酒井ナカと出会い、結婚した。

1897年10月12日 高宗(閔妃の夫)、大韓帝国皇帝に即位。

高宗
http://ja.wikipedia.org/wiki/高宗_(朝鮮王)

大韓帝国
http://ja.wikipedia.org/wiki/大韓帝国

1898年4月8日 禹長春 誕生
1903年11月24日 禹長春の父 禹範善、高永根によって広島県呉市にて暗殺。

高永根
http://ja.wikipedia.org/wiki/高永根

守旧派から開化派に転向した後、爆弾テロ事件に関わったことで1899年6月21日、日本へ亡命した男。

一旦は死刑判決が下るも控訴審で無期懲役の判決、結局さらに減刑され5年間の刑期を終えたのち、韓国へ帰国し、その後は閔氏の墓守となった。1923年没。

この事件に関し、大韓帝国皇帝、高宗は高永根の判決に対して善処を求め、帰国後に御手元金などを下賜していた。

そして、範善を失った長春母子は困窮することになる。

1904年(明治37年)2月8日 - 1905年(明治38年)9月5日 日露戦争

http://ja.wikipedia.org/wiki/日露戦争

大日本帝国とロシア帝国との間で朝鮮半島と満洲南部を主戦場として発生した戦争

1910年(明治43年)8月 日韓併合

http://ja.wikipedia.org/wiki/韓国併合

これにより大韓帝国は滅亡し、李王家は日本の王公族となり、皇族に準じる待遇を受けたが、第二次世界大戦後の日本国憲法施行に伴い、その身分を失った。

しかし、李王家自体は現在も存続しており、第30代当主、李源(1962年生)は高宗の曾孫にあたる。

1919年1月21日 高宗、薨去
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