万里の長城に組み込まれた要塞「董卓塁」とは何か?地図から浮かび上がる黄巾の乱の攻防戦と司令官董卓の戦いー董卓は現地の民衆(反黄巾側)に慕われていた?—
常山郡の山奥に董卓塁。并州牧としての活動かな。 pic.twitter.com/NipxrTpYKO
2021-04-29 17:05:01@osacchi_basstrb 近くには董卓を祀る「董卓祠」もありましたし、黄巾との戦いの頃の故事を伝えてるのかと思いました。この董卓塁は、位置的に後世の長城の一部と重複してるので、長城に組み込まれたのかもしれないです。
2021-04-29 17:08:28@fushunia なるほど!確かに黄巾とこのあたりで戦ってますね。
2021-04-29 17:16:45『水経注図』を見ていたら、常山郡に「董卓塁」って書いてあいて、びっくりした。井徑(せいけい)口の西です。赤線で長城が描かれていて、その上に「董卓塁」って書かれている。「塁」は田3つに土の字形のほう。
2016-01-26 21:23:26ブログ「雲子春秋」さんの情報によると、常山郡境に董卓祠があったそうです。 chincho.hateblo.jp/entry/20120128…
2021-04-29 17:54:40ブログ更新『董卓祠 』-意外と長持ちしてた董卓祠。でも董卓カワイソス。 d.hatena.ne.jp/chincho/201201…
2012-01-28 00:23:37北斉書の魏蘭根伝に「母が亡くなったので常山に葬ろうとしたが、董卓の祠があり柏の木が生えていたので『悪逆なる者に遺祠があるのはおかしい』と言ってこれを伐って葬具に充てた」というような記述があった。
2015-11-14 20:25:39董卓の死から北魏末年の魏蘭根の時代まではおそらく300年ほどは経過しているのだろうが、董卓の遺祠というのがあったことは興味深い。
2015-11-14 20:27:27董卓というと三国志の悪役というイメージが強いが、三国志と後漢書の彼の伝を読み直してみたら少々異なる印象も受けた。朝廷で権を握る前の彼はなかなかの武将のようにも思える。卓が殺された後に李カクらが長安を奪還して【眉β】に葬ったそうだが、常山に祠というのは州を牧した縁なのだろう。
2015-11-14 20:33:02董卓は地方にあっては戦いに明け暮れたらしいが、賞賜の品を悉く部下に分配したとのこと。これは人心掌握の為かもしれないが、それに見合った効果もあったのだろう。しかし祠が立てられるというのは、治下の民らにとってそれなりに益するところもあったのだろう。
2015-11-14 20:35:27以前に図書館で「中国歴史地名辞典」というのを閲覧したが、そこに董卓城という項目があった。「山西平定県の東北、水経注に『沢は董卓塁の東より発す』」と説明があった。平定県というのは常山とは近いとは言えずともかけ離れた遠方という程でもないようだ。
2015-11-14 20:38:35@Jominian d.hatena.ne.jp/chincho/201201… 雲子さんのブログによると、黄巾討伐?と書かれていますね。
2016-07-19 00:05:54@fushunia ありがとうございます。ただ、それは鉅鹿と常山の間っぽいですね。私の言っている董卓塁は、常山と并州の境辺りにあるものなので、それとはまた異なるようです。
2016-07-19 00:29:12@Jominian 『水経注図』の董卓塁を再確認しました。井陘の南にあるのですね。「沢発水」という川の水源よりも高地にあり、相当険しそうです。のちに井陘の西の要害から董卓塁まで、長城が連結されていますね。南北朝時代の長城だと思います。
2016-07-19 01:23:17@Jominian 『後漢書』朱儁列伝をを見ると、張燕について「與中山、常山、趙郡、上黨、河內諸山谷寇賊更相交通,」とあり、諸山谷の寇賊が互いに通交していたとありますので、常山と昔陽を結ぶ交通路のひとつに「董卓塁」があるようでした。
2016-07-19 01:32:01@fushunia 位置は分かるのですが、そこに塁を築いたタイミングが分からなかったのです。ただ、中郎将として冀州の黄巾を討伐に行く直前は河東太守だったので、洛陽を経由せずに黒山賊の支配地域を突っ切って冀州に出たのかもしれませんね。手を抜いていたような印象と合いませんが。
2016-07-19 07:25:10@Jominian 董卓祠の位置は、鉅鹿国(郡)下曲陽県と常山郡の境に位置していたように読めますので、董卓と張角が戦った下曲陽の戦いに由来するとしたら面白いですね。
2016-07-19 13:59:29常山は、黄巾の勢力圏だったのでしょうか。董卓塁との関係が気になりますね。 d.hatena.ne.jp/AkaNisin/20101…
2016-07-19 01:56:39@fushunia 『三国志』より『後漢書』の方が、董卓の黄巾戦についての記述が詳しいのですね。董卓は下曲陽で張角と戦って敗北したとあり、下曲陽は巨鹿国に属しています。張角は巨鹿の出身だから、張角にとっては本拠地の防衛戦ですね。
2016-07-19 02:08:08@fushunia 下曲陽は、巨鹿国の西北にあり、常山と接しています。おそらく、董卓は常山を拠点化し、東南に進軍しようとしたのですが、下曲陽で張角に阻まれ、敗北したようです。董卓塁は、常山の西南にあり、おそらく備えが十分では無かったので、塁を築いたのだと思います
2016-07-19 02:16:08@fushunia 常山の西には要害が多く、山々がそびえています。その中で、常山の西の守りの井陘(せいけい)は、天下の険として特に有名です。宮城谷昌光は小説の中で「中山国滅亡後、残党の楽毅が井陘を死守して、趙の武霊王の攻撃に耐え続けた」という場面を完全創作し、「司馬遷を超えた」と
2021-05-01 03:18:14@fushunia 小説の解説者から絶賛されていますが、これはアフガニスタンの対ソ連戦争だとか、山中での長期の抵抗戦を参考にしたものだと思います。
2016-07-19 02:22:01